2022年12月19日月曜日

〈藤原定家の時代214〉元暦2/文治元(1185)年5月25日~6月12日 平頼盛出家 頼朝、簾中より比企能員を介して宗盛に言葉をかける 宗盛・重衡、別々に鎌倉より護送 

 


〈藤原定家の時代213〉元暦2/文治元(1185)年5月24日 義経、腰越より書を大江広元に送り弁疏(「腰越状」) 義経伝説に基づく創作とする説 『吾妻鏡』『平家物語』(巻第11「腰越」) より続く

元暦2/文治元(1185)年

5月25日

・畿内の雑訴の成敗を担当する中原久経・近藤国平の夫々雑色3人をつけて支配強化を図る。

義経が追討使として屋島に向かう際に、それまで義経が担ってきた畿内近国に対する沙汰権が、中原久経と近藤国平に移ったが、義経の帰京後もそれが義経に返ることはなく、むしろ両人の沙汰権が強化されている。

また、両人が関東御使として、院宣に基づいて畿内近国を巡検し、誤りなく「土民」の訴訟を成敗していることを、頼朝は誉めている(『吾妻鏡』6月16日条)

「雑色六人を典膳大夫・近藤七等の許に差し遣わさる。これ畿内の雑訴成敗の間、久経三人・国平三人、召し仕うべきの由仰せ付けらるる所なり。この次いでを以て、京畿の間沙汰を致すべき條々、御事書を遣わさる。」(「吾妻鏡」同日条)。

5月27日

「源蔵人大夫頼兼申して云く、去る十八日、盗人禁裏に推参せしめ、昼御座の御劔を盗み取る。蔵人並びに女官等動揺してこれを求む。頼兼が家人武者所久實、左衛門の陣の外に追奔しこれを生虜り、御劔を本所に返し置き奉る。件の犯人搦め取らるるの時、自戮せんと欲するの間、すでに半死半生の由、只今その告げ有りと。然る如きの勇士、殊に賞を加えらるべきの由、二品感じ仰せらる。則ち劔を取り出し、彼の男に與うべしと称し、頼兼に賜う。この人御気色快然と。」(「吾妻鏡」同日条)。

5月29日

平頼盛(54)、東大寺において出家。6月下旬、後白河院、備前・播磨を院分国とした上で知行権を期限4年に限って与える。頼盛は、息子光盛(14)に備前守を、藤原実明に播磨守を申請。文治2年(1186)6月2日病没(55)。

6月7日

・源頼朝、簾中より平宗盛を眺め、家臣を介して言葉をかける。宗盛はただ助命と出家の意図を述べるだけで、並居る武士達の嘲笑を浴びる。足利義兼、臨席(「吾妻鏡」)。「源平盛衰記」「平家物語」では、自決を暗示するが宗盛はその素振すら見せずという。

頼朝が、再び京に戻ることとなった宗盛と対面する意向を広元に示したが、二位という高位にある頼朝が、「朝敵」たる「無位の囚人」に対面するのは「軽骨の謗りを招く」ことであると広元が諌めたために、直接の対面は行なわれず、簾中にいる頼朝が宗盛に接するという形式がとられることとなった。

「戊午 前の内府近日帰洛すべし。面謁すべきかの由、因幡の前司に仰せ合わさる。これ本三位中将下向の時対面し給うが故なり。而るに廣元申して云く、今度の儀、以前の例に似るべからず。君は海内の濫刑を鎮め、その品すでに二品に叙し給う。彼は過て朝敵と為り、無位の囚人なり。御対面の條、還って軽骨の謗りを招くべしと。仍ってその儀を止められ、簾中に於いてその躰を覧る。諸人群参す。頃之前の内府(浄衣を着し、立烏帽子)西侍障子の上に出る。武蔵の守・北條殿・駿河の守・足利の冠者・因幡の前司、筑後権の守・足立馬の允等その砌に候す。二品比企の四郎能員を以て仰せられて云く、御一族に於いて、指せる宿意を存ぜずと雖も、勅定を奉るに依って、追討使を発するの処、輙く辺土に招引し奉る。且つは恐れ思い給うと雖も、尤も弓馬の眉目に備えんと欲すてえり。能員内府の前に蹲踞し、子細を述べるの処、内府座を動かし、頻りに諂諛の気有り。報じ申せらるの趣また分明ならず。ただ露命を救わしめ給わば、出家を遂げ仏道を求むの由と。これ将軍四代の孫として、武勇の家を稟く。相国第二の息として、官禄任意たり。然れば武威に憚るべからず。官位に恐るべからず。何ぞ能員に対し礼節有るべきや。死罪更に礼に優ぜらるべきに非ざるか。視る者弾指すと。」(「吾妻鏡」同日条)。

□現代語訳。

「七日、戊午。前内府(平宗盛)は近日帰洛の予定である。(宗盛と)対面すべきかどうかを(頼朝は)因幡前司(中原広元)に相談した。本三位中将(平重衡)が(鎌倉に)下向した時には対面したためである。しかし、広元は、今度は以前とは異なり、君(頼朝)は国内反乱を鎮め、その位はすでに二位に叙されている、宗盛は過失を犯して朝敵となり、今や無位の囚人であり、対面することは軽率の誇りを招く、と答える。そこで対面は取り止め、簾中から宗盛を見ることになる。多くの人が(幕府に)参集した。暫くして、宗盛(浄衣を着て、立烏帽子を着ける)が西侍の障子の辺に姿を見せた。武蔵守(平賀義信)・北条殿(時政)・駿河守(源広綱)・足利冠者(義兼)・因幡前司(中原広元)・筑後権守(藤原俊兼)・足立馬允(遠元)らが宗盛の近くに座る。二品(頼朝)は比企四郎能員を通じて言う。「御一族に対しては、それ程に深い恨みはないが、勅命を承ったので、追討使を派遣した結果、この田舎に招くことになった。畏れおおいとは思うが、(平氏総帥のあなたにお目にかかることで)武芸に携わる者の名誉としたいと思う」。能員が宗盛の前に蹲踞(ソンキョ)して述べたところ、宗盛は座を動いて(敬意を表し)、しきりにへつらう様子である。(能員に)話した内容ははっきりしない。ただ命を助けてもらえれば、出家して仏道に専心したいと言う。宗盛は四代の将軍の子孫として武勇の家に生まれ、相国(清盛)の次男として官位も報酬も心のままであった。だから、武威を恐れ憚ることはないし、官位を恐れることもない。どうして能員に対して礼を尽くすことがあろうか。いくら礼を尽くしても死罪を許されるものでもない。この様子を見た者は(宗盛を)非難したという。」

6月8日

多田行綱、本領の多田荘を「きくわい(奇怪)によて」頼朝に没収される。義経と密接に連携し、多田荘などの所領の安堵を受けていたのを咎められた。多田荘没収は義経の安堵権限の否定でもある。頼朝は、多田荘を源氏一門の大内惟義に与え、行綱の家人たちを多田院御家人として組織し、閑院内裏の大番役勤仕を命じる。

6月9日

・酒匂に逗留の義経、頼朝より平家の捕虜宗盛父子を京都に連れ戻るよう命じられる。都到着前に処刑するよう密命ありと推測できる。頼朝は、前右馬允橘公長・児玉党浅羽宗信・宇佐美平次らを一行に加え義経をを監視させる

同じこの日、平重衡は源蔵人大夫頼兼(源頼政の子)・甥源行綱(義経の女婿)が護送。

「廷尉この間酒匂の辺に逗留す。今日前の内府を相具し帰洛す。二品橘馬の允・浅羽庄司・宇佐美の平次已下の壮士等を差し、囚人に相副えらる。廷尉日来の所存は、関東に参向せしめば、平氏を征する間の事具に芳問に預かり、また大功を賞せられ、本望を達すべきかの由思い儲くの処、忽ち以て相違す。剰え拝謁を遂げずして空しく帰洛す。その恨みすでに古の恨みより深しと。また重衡卿、去年より狩野の介宗茂の許に在り。今源蔵人大夫頼兼に渡され、同じく以て進発す。」(「吾妻鏡」同日条)。

6月10日

・九条兼実の弟九条兼房、出羽の知行を得る。

6月10日

・前関白藤原基房、能登を知行国として与えられる。この日、基房の推挙により、正四位下近衛少将藤原顕家(基房と主従関係)、能登守兼任を命じられる。基房・顕家共に反平家的であるが、基房正妻忠子は、親平家の前権大納言藤原兼雅の姉妹。忠子の叔父権大納言藤原忠親(「山塊記」筆者)は平時忠(5月能登配流決定、9月下旬出発)の娘を妻とする。顕家は、平家びいきの藤原隆房の従兄弟。顕家は、基房妻の忠子や隆房から時忠の厚遇を依頼さえていると推測できる。また、翌年2年2月には隆房の同母弟隆雅が能登権介の兼任となる。

6月12日

〈荘郷地頭制の成立〉

東国では没収地給与は下司職などの種々の荘官名で行われていたが、頼朝は6月12日、朝廷に対して、「謀反の輩所知の所帯、他人に改替し計らひ置くべし」(「百練抄」6月12日条)と、西国でも没官領給与を行うことを通告し、その補任・改替権が荘園領主にではなく、鎌倉殿頼朝にあることを明確化する目的で、「地頭職」という統一的名称を意識的に用い始めた

のちに、頼朝は、荘郷(しようごう)地頭(国単位に置かれた国地頭と区別して、荘園・国衙領単位に置かれた地頭職を荘郷地頭と呼ぶ)の設置について、

「また伊勢国においては、住人梟悪(きようあく)の心を挟み、すでに謀反を発し了んぬ。しかるに件の余党、尚以て逆心直ならず候なり。仍つて其の輩を警衛(けいえい)せんがために、その替りの地頭を補せしめ候なり。・・・凡そ伊勢国に限らず、謀叛人居住の国々、凶徒の所帯跡には、地頭を補せしめ候ところなり。」(「吾妻鏡」文治2年6月21日条)

と述べている。頼朝が挙兵以来東国で独自に行ってきた敵方所領没収と没収地給与は、こうして元暦元年(1184)7月の伊賀・伊勢の反乱を契機に、謀叛人跡周辺の警衛を任務とする鎌倉幕府荘郷地頭制として制度化されたのであり、「凡そ伊勢国に限らず」と全国に拡大していった。


つづく


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