〈藤原定家の時代214〉元暦2/文治元(1185)年5月25日~6月12日 平頼盛出家 頼朝、簾中より比企能員を介して宗盛に言葉をかける 宗盛・重衡、別々に鎌倉より護送 より続く
元暦2/文治元(1185)年
6月13日
・頼朝、義経に与えていた平家没管領24ヶ所を没収。義経から家臣を扶持する財政的基盤を剥奪。
理由は、義経の勲功は、頼朝の代官として御家人を差し副えられたからであり、ひとりでは平氏を追討できなかった。ところが、義経は一身の大功であると自称し、しかも帰京の際に、関東に恨みを持つ者は義経に属するように言い放ち、頼朝を激怒させたからだという(『吾妻鏡』6月13日条)。
義経は頼朝から「因縁」をつけられる立場になってしまった。
「廷尉に分ち宛てらるる所の平家没官領二十四箇所、悉く以てこれを改めらる。因幡の前司廣元・筑後権の守俊兼等これを奉行す。凡そ廷尉の勲功と謂うは、二品の御代官に非ざると云うに莫し。御家人等を差し副えられずんば、何の神変を以て、独り凶徒を退けべけんや。而るに偏に一身の大功たるの由、廷尉自称す。剰え今度帰洛の期に及び、関東に於いて怨みを成すの輩は、義経に属くべきの旨詞を吐く。縦え予に違背せしむと雖も、爭か後聞を憚りざらんか。所存の企て、太だ奇怪の由忿怒し給う。仍って此の如しと。」(「吾妻鏡」同日条)。
6月14日
・「・・・対馬の守親光彼の島に帰着すと。これ去々年、当島より上洛せんと欲するの折節、平家鎮西に零落するの間、路次不通に依って、纜を解くに能わず。猶以て在国するの処、中納言知盛卿並びに少貳種直等の奉行として、屋島に参らせしむべきの由その催に及ぶ。九州・二島・中国等、皆平家の方に従うと雖も、親光独り志を源家に運すの間行き向かわず。仍って三箇度追討使を遣わさる。所謂高次郎大夫経直(種直家子)両度、拒押使宗房(種益郎等)一箇度なり。この輩頻りに下国し、或いは国務を知行し、或いは合戦に及ぶ。存命難きの間、風波を凌ぎ、去る三月四日高麗国に越え渡らしむの時、妊婦を相伴う。仍って仮屋を曠野の辺に構え産生す。時に猛虎窺い来たる。親光郎従これを射取りをはんぬ。高麗国主この事に感じ、三箇国を親光に賜う。すでに彼の国の臣たるの処、この迎え有り帰朝す。件の国主殊にその余波を惜しみ、重宝等を与う。三艘の貢船に納めこれを副え送ると。」(「吾妻鏡」同日条)。
6月15日
・伊勢国壱志郡に展開していた平信兼の所領の一つ波出御厨(はでのみくりや)を、謀叛人跡として没官し、その地頭職に御家人惟宗忠久(これむねただひさ、島津家初代当主島津忠久)を補任。
なお、惟宗忠久は、のちに、島津荘下司職・信濃国塩田荘地頭職に補任される。
6月16日
・「典膳大夫・近藤七等、関東の御使として院宣を帯し、畿内近国を巡検し、土民の訴訟を成敗す。然る間当時その誤りを聞かず。二品内々感じ仰せらるるの処、尾張の国に玉井の四郎助重と云う者有り。本より猛悪を先として、諸人の愁いを懐かしむるの由謳歌す。近日殊にまた違勅の科有り。仍って件の両人尋ね沙汰せんが為、召文を遣わすと雖も敢えて応ぜず。還って謗言に及ぶ。時に久経等子細を言上するの間、俊兼の奉行として、今日助重に仰せられて云く、綸命に違背するの上は、日域に住むべからず。関東を忽緒せしむに依って、鎌倉に参るべからず。早く逐電すべしと。」(「吾妻鏡」同日条)。
6月18日
・この頃、義経、大原の本成坊湛斅(たんごう)に急使派遣、宗盛父子の処刑に戒師として立合う為に近江篠原(野洲町大篠原)に来臨するよう請う。
6月19日
・諸国の国衙機構を掌握して軍事動員にあたっていた惣追捕使が停止され、戦時体制が解除される。
6月20日
・「筑前の国香椎の社の前の大宮司公友、忽ち領家の命に背き濫行を致し、造替遷宮の儀を抑留す。しかのみならず、その身前司たりながら、押して社務を行う。早く罪科に行わるべきの由、社官等日来関東に訴え申す。仍って今日その身を追却し、遷宮を遂げ行うべし。もし承引せずんば、別の御使いを遣わし、法に任せ沙汰を致すべきの旨、下知せしめ給う。俊兼これを奉行す。」(「吾妻鏡」同日条)。
6月21日
・義経、京都への帰路、橘公長に命じて平宗盛(39)を近江篠原(野洲町)に、堀景光に命じて清宗(16)を野路口(草津市)に斬殺。義経入洛。八条院使者の伊予下向の安全を保証する書状を出す。
「卯の刻廷尉近江の国篠原の宿に着く。橘馬の允公長をして前の内府を誅せしむ。次いで野路口に至り、堀の彌太郎景光を以て、前の右金吾清宗を梟す。この間大原の本性上人、父子の知識として、その所々に来臨せらる。両客共上人の教化に帰し、忽ち怨念を翻し、欣求浄土の志を住すと。また重衡卿、今日花洛に召し入れらると。」(「吾妻鏡」同日条)。
6月22日
・義経、宗盛等の首を検非違使に渡すべきか、そのまま捨て置くべきか、院宣に従うという頼朝の意向を後白河に伝え、後白河はさらに兼実に諮問し、後白河の裁量で検非違使に渡されることになったらしい (『玉葉』6月22日条)
「大蔵卿泰経院宣を伝えて云く、前の内府、並びにその息清宗・三位中将重衡等、義経相具し参洛する所なり。而るに生きながらの入洛無骨なり。近江の辺に於いてその首を梟首すべし。使の廰に渡すべきや。将に棄て置くべきや。院宣に随うべきの由、頼朝卿申せしむの旨、義経申す所なり。計り申すべしてえり(但し重衡ハ南都に遣わしをはんぬと)。余申して云く、この事の左右ただ勅定に在るべしてえり。」(「玉葉」同22日条)。
6月23日
・義経の家人、平宗盛・清宗父子の首を六条河原に持参し検非違使に渡す。首は槍先に付けられ市中を引き廻される。後白河院は、三条東洞院の辻よりこれを観覧。
「西国より上りては、生きて六条を東へ渡され、東国より帰りては、死にて三条を西へ渡さる。生きての恥、死にての恥、いづれも劣らざりけり。」(『平家物語』巻11、「大臣殿誅罰の事」)
6月23日
・平重衝(28)、日野で妻藤原輔子との別れ(「源平盛衰記」(巻45)、「平家物語」(巻12)。妻輔子は壇ノ浦から引揚げ後、建礼門院に侍し、この頃は重衡と会う為に日野の辺りに住む。「源平」「平家」では、姉成子の家に同居、「醍醐雑事記」では、醍醐寺寺主の故行廷の住房を借り受けたとする。
重衡護送を聞き、東大寺・興福寺衆徒は合同会議を開き、重衡の処分を検討。強硬意見も出る中、老僧の意見が通り守護の武士に木津辺で処刑して貰う結論となる。
平重衝、木津川河畔で斬首。首は南都大衆に渡され奈良坂に晒される。遺体は妻輔子が引取り、7日後に貰いうけた首と同じく日野で荼毘に付される。愛人内裏女房左衛門佐は出家後、天王寺沖で投身(23)(「平家物語」巻10)。鎌倉で応接した千手前は25日没(24)(「吾妻鏡」)。
「伝聞、重衡の首泉木津の辺に於いてこれを切る。奈良坂に懸けしむと。前の内府父子に於いては、晩に及び使の廰に渡しをはんぬ。院御見物有りと。これ左大臣申し行うと。」(「玉葉」同日条)。
6月25日
・藤原長方(47)出家
6月25日
・「佐々木の三郎成綱は、平家在世の程は源家に背き奉り、事に於いて不忠を現す。而るに彼の氏族城外の後追従し奉り、去年一谷の合戦を遂げ、子息俊綱越前三位通盛を討ち取りをはんぬ。仍ってその賞を望むと雖も、先非を悪ましめ給うの間、敢えて御許容無きの処、侍従公佐朝臣に属き、頻りにこれを愁い申すに依って、子息の功に募り、本知行所に於いては、沙汰し付けらるべきの由御契約有りと。」(「吾妻鏡」同日条)。
6月29日
・大江広元、因幡守を辞す。以後建久2年(1191)にいたるまで、広元は「因幡前司」として諸史料に現われることになる。
広元の後任の因幡守には、12月29日に源通具(みちとも)が補任され、通具の父通親(みちちか)が因幡国の国務を知行した。
6月30日
・「聞書を見る。頼盛入道備前播磨を給う。九郎賞無し如何。定めて深い由緒有るか。」(「玉葉」同日条)。
つづく
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