2022年12月11日日曜日

〈藤原定家の時代206〉元暦2/文治元(1185)年3月27日~4月11日 壇ノ浦の戦い戦勝、京都及び鎌倉に伝わる 「先づ生虜等の事如何。次に三種の宝物帰り来たる間の事如何。この両条殊に計らひ申すべし云々といへり。」(『玉葉』) 「武衛則ちこれを取り、自らこれを巻き持たしめ給い、鶴岡の方に向かい座せしめ給う。御詞を発せらるること能わず。」(『吾妻鏡』)   



元暦2/文治元(1185)年

3月27日

「土佐の国介良庄の住侶琳猷上人関東に参上す。これ源家に功有る者なり。去る壽永元年、武衛の舎弟土佐の冠者希義、彼の国に於いて蓮池権の守家綱が為討ち取らるるの時、死骸を遐邇に曝さんと欲す。爰に土人の中、自ら好忠の輩有りと雖も、平家の後聞を怖れ、葬礼の沙汰に及ばす。而るにこの上人、往日の師壇を以て、垣田郷の内に墓所を点じ、没後を訪い未だ怠らず。また幽霊の鬢髪を取り、今度則ち頸に懸け参向する所なり。走湯山の住僧良覺に属き、子細を申すの間、武衛御対面有り。上人の光臨を以て、亡魂の再来に用いるの由、芳讃を尽くさると。」(「吾妻鏡」同日条)。

3月27日

・平氏が長門で滅んだとの報、京に入るが、義経からの飛脚は遅い。

「伝へ聞く、平氏長門国に於て伐たれ了んぬ。九即の功と云々。実否未だ聞かず。これを尋ぬべし。」(「玉葉」同日条)。

義経からの飛脚は4月3日夜に到来。

3月28日

「又云はく、平氏伐たれ了る由、この間風聞す。これ佐々木三郎と申す武士の説と云々。然れども、義経未だ飛脚を進らせず。不審尚残ると云々。」(「玉葉」同日条)


4月3日

・大江広元、正五位下に昇叙。

4月4日

・壇ノ浦の戦い戦勝、京に伝わる(「吾妻鏡」「玉葉」同日条)。4月3日夜に義経からの飛脚が到来。

それによれば、合戦は3月24日の午の刻から日暮れまで、「長門園田(壇)」の海上でおこなわれたが、「伐ち取るの者と云ひ、生け取るの者と云ひ、其の数を知らず」という大勝で、惣領の前内大臣宗盛や前大納言平時忠(清盛の妻時子の兄)らが生け捕りになったという。また、神器はあったが、「旧主」(安徳天皇)についてははっきりしないとされている(4月4日条)。結局、安徳は入水していたが、『玉葉』はその後もこのことにはまったくふれていない。兼実の関心は、安徳より神器のゆくえだったが、その神器についても、飛脚からの情報は不分明で、兼実は「猶以て不審有り」と述べている(4月4日条)。

この日(4日)早朝、兼実のもとに急報。長門における平家の敗減が公式に告げられたが、その日の未(ひつじ)の刻(午後2時頃)に大蔵卿泰経が奉行として、義経からの戦況報告を後白河に言上することになり、その件について協議すべきことがあるので参入せよという。兼実が参内すると、後白河側近藤原光能が、つぎのように院宣の趣を伝えた。

「院宣に云はく、追討の大将軍義経、去夜飛脚を進らせ(札を相副ふ)申して云はく、去る三月二十四日午の刻、長門国団(浦)に於て合戦(海上に於て合戦すと云々)、午正(ごしやう)より哺時(ほじ)に至る。伐ち取る者と云ひ、生け捕る輩と云ひ、その数を知らず。この中前内大臣、右衛門督清宗(内府の子なり)、平大納言時忠、全真僧都等生虜となると云々。又宝物等おはします由、同じく申し上ぐる所なり。但し旧主の御事分明(ぶんみやう)ならずと云々。次第かくの如し。この上の事何様に行はるべきや。先づ生虜等の事如何。次に三種の宝物帰り来たる間の事如何。この両条殊に計らひ申すべし云々といへり。」

4月5日

・大夫尉信盛を勅使として長門に派遣し、討伐軍の軍功を賞するとともに、三種の神器の無事奉還を大将軍義経に強く申し入れさせる。

「大夫の尉信盛勅使として長門の国に赴く。征伐すでに武威を顕わす。大功の至り、殊に感じ思し食す所なり。また宝物等、無為に入れ奉るべきの由、義経朝臣に仰せらるるに依ってなり。」(「吾妻鏡」同日条)。

4月11日

・鎌倉、義朝の霊を弔う南御堂(勝長寿院)の立柱の日、義経から壇ノ浦合戦の源氏勝利の報(中原信泰が筆録した廷尉義経からの報告書)が頼朝に届く。

翌日、戦後処理を評議。

範頼は九州に留まり没官領などを調査・措置、義経には捕虜を連れての上洛を命じる。その旨を伝えるために雑色の時沢と里長らを飛脚としてただちに鎮西に赴かしめる。

藤原邦通が頼朝の御前で報告を読み上げると、頼朝は受け取って巻き戻し、鶴岡八幡宮の方向を向いて座り、言葉を発することができなかったという。その後、帰宅の後に使者に合戦のことを詳しく尋ねたという。

「未の刻、南御堂の柱立てなり。武衛監臨し給う。この間西海の飛脚参り、平氏討滅の由を申す。廷尉一巻の記を進す(中原信泰これを書くと)。これ去る月二十四日、長門の国赤間関の海上に於いて、八百四十余艘の兵船を浮かぶ。平氏また五百余艘を漕ぎ向かい合戦す。午の刻逆党敗北す。一、先帝海底に没し御う 一、海に入る人々 二位尼上 門脇中納言教盛 新中納言知盛 平宰相経盛(先に出家か) 新三位中将資盛 小松少将有盛 左馬の頭行盛 一、若宮並びに建禮門院無為にこれを取り奉る 一、生虜の人々 前の内大臣 平大納言時忠 右衛門の督清宗 前の内蔵の頭信基(疵を被る) 左中将時實(同上) 兵部少輔尹明 内府子息六歳童形(字副将丸) 此の外 美濃前司則清 民部大夫成良 源大夫判官季貞 摂津判官盛澄 飛騨左衛門の尉経景 後藤内左衛門の尉信康 右馬の允家村 女房 帥典侍(先帝御乳母) 大納言典侍(重衡卿妻) 帥の局(二品妹) 按察の局(先帝を抱き奉り入水すと雖も、存命) 僧 僧都全眞 律師忠快 法眼能圓 法眼行明(熊野別当) 宗たる分の交名且つは此の如し。この外男女生取る事追って注し申すべし。また内侍所・神璽は御坐すと雖も、宝劔は紛失す。愚慮の覃(およ)ぶ所これを捜し求め奉る。籐判官代御前に跪き、この記を読み申す。因幡の守並びに俊兼・筑前の三郎等その砌に候す。武衛則ちこれを取り、自らこれを巻き持たしめ給い、鶴岡の方に向かい座せしめ給う。御詞を発せらるること能わず。柱立て・上棟等事終わり、匠等禄を賜う。漸く営中に還らしめ給うの後、使者を召し、合戦の間の事具にこれを尋ね下さると。」(「吾妻鏡」同日条)。

「平氏滅亡の後、西海に於いて沙汰有るべき條々、今日群議を経らると。参河の守は暫く九州に住し、没官領以下の事これを尋ね沙汰せしむべし。廷尉は生虜等を相具し、上洛すべきの由定めらると。即ち雑色時澤・重長等、飛脚として鎮西に赴くと。」(「吾妻鏡」同12日条)。


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