2022年12月30日金曜日

〈藤原定家の時代225〉元暦2/文治元(1185)年10月19日~10月23日 義経のもとに頼朝追討の兵集まらず 「宣下の後武士を狩る。多く以て承引せずと。」 「近江の武士等、義経等に與せず。奥方に引退すと。」  

 


〈藤原定家の時代224〉元暦2/文治元(1185)年10月15日~10月18日 堀川夜討(頼朝が派遣した土佐坊昌俊らが義経を襲撃) 後白河、義経・行家に頼朝追討の院宣を下す より続く

元暦2/文治元(1185)年

10月19日

・頼朝、父遺愛の太刀「吠丸」を法皇に献じる(法皇護身の剣紛失を受けて)。

「法皇御護りの御劔去々年紛失す。去る比江判官公朝これを求め得てこれを献上せしむ。風聞するの間、今日二品御書を以て、公朝に感じ仰せらると。これ左典厩の太刀を以て、献じ奉らるる所なり。吠丸と号し鳩塢を蒔くと。」(「吾妻鏡」同日条)。

10月19日

・義経勢が山之内経俊の伊勢守護所を包囲したとの風聞。

10月20日

「御堂供養の導師本覺院坊僧正公顕下着す。二十口の龍象を相具する所なり。参河の守範頼朝臣相伴い参着すと。彼の朝臣今夜即ち二品の御所に参り、日来の事を申す。」(「吾妻鏡」同日条)。

10月21日

・勝長寿院の本尊阿弥陀如来像完成、安置。仏師成朝、鎌倉出発。

「南御堂に本仏(丈六、皆金色の阿弥陀像。仏師は成朝なり)を渡し奉る。・・・今日、源蔵人大夫頼兼京都より参着す。去る五月、家人久實犯人(昼御座の御劔盗人)を搦め進す。件の賞に依って、去る十一日従五位上に叙す。久實また兵衛の尉を賜う。而るに息男久長に譲るの由これを申す。」(「吾妻鏡」同日条)。

10月22日

・宣旨にも拘らず、兵を近国に募るが義経の許に応ずるものなし。近江の武士達は奥方に退く。畿内近国の武士は義経を見限る。

「伝聞、宣下の後武士を狩る。多く以て承引せずと。」(「玉葉」同日条)。

義経は西海に逃れる事を模索し、船をあつらえるため大夫判官斉藤友実を摂津に派遣。途中、元義経の家人で児玉党の庄四郎に逢うが、隙を見て友実は殺害される。友実は、仁和寺宮に童として仕え、平家に属し、義仲に仕え、義経の家人となった人物。義経に従う者は、この様な源平の間を渡りながら仕える者が多い。

10月22日

頼朝追討宣旨の報、一条能保の使者により鎌倉に伝わる。頼朝は動揺もなく24日の勝長寿院の供養の沙汰に専心

「左馬の頭能保が家人等京都より馳参す。申して云く、去る十六日、前の備前の守行家、祇候人の家屋を追捕し、下部等を搦め取る。結句行家北小路東洞院の御亭に移住すと。また風聞の説に云く、去る十七日土左房の合戦その功成らず。行家・義経等、二品追討の宣旨を申し下すと。二品曽て動揺せしめ給わず。御堂供養沙汰の外他に無しと。」(「吾妻鏡」同日条)。

〈頼朝の目論見=挑発説〉

ここで頼朝が動揺しなかったのは、すべてが頼朝の目論見通りであったからだろう。後白河に頼朝追討宣旨を出させるように頼朝自身が仕向けた。

壇ノ浦後、まず自由任官者を叱責することで、義経に頼朝の怖さを知らせ、梶原の讒言を機に義経の非を責め、西国御家人に義経の命に従わないことを指示して、義経を孤立させる。

ついで、鎌倉に下向した義経を鎌倉に入れず、弁明をも聞かずに京都に返し、同時に恩賞地を没収して、義経に頼朝に対する不信感や不満を募らせる。伊予守に任官させて検非違使の職を奪うという目論見は失敗したものの、充分に義経を追い詰めたうえで、忘れられたような存在といえる行家の謀反をでっち上げて、義経の反応を何い、その反応を口実に刺客を送る。刺客は通常よりもゆっくりと向かわせることで、向かっていることが故意に義経達に伝わるようにし、義経と行家が結ばざるを得なくさせ、ついに頼朝追討宣旨を要求させた。

刺客土佐房の失敗も想定のうえで、土佐房が老母や嬰児のことを頼朝に頼み、頼朝がそれを快諾してすぐに所領を与えたのも、その死が想定されていたからであるとみる。『吾妻鏡』によれば、義経への刺客のことは日頃から群議をこらしていたという(10月9日条)。

刺客が送られることがわかれば、義経としては戦うしかない。戦うならば、同じ様な境遇にあり、しかも近くにいる行家と結び付くのも自然の流れである。頼朝の刺客は宣旨や院宣を得たうえでの追討ではなく、頼朝による家人への私刑にすぎない。私刑として、大夫尉で院御厩司であり、しかも殿上人で院の近臣である義経を追討しようというのだから、頼朝の行為こそ朝廷や後白河への謀反に等しく、後白河を挑発しているともいえる。

兼実は、『玉葉』に、「頼朝法皇の叡慮に乖(そむ)くことはなはだ多し」(10月13日条)、「(義経を)京都に置きながら武士を差し上せ、誅すべき由の風聞、狼藉の条すでに朝章を忘るるに似たり」(10月17日条)という。

こうした私刑に対し、宣旨を得て対抗すれば、義経達の方に戦うための大義名分が成り立つことになるし、対立が長く続くとなれば、義経達が宣旨を得ておくのが得策と考えるのは当然の流れである。

頼朝は、このようにして追討宣旨を出させ、追討宣旨を出したという後白河側の負い目を利用して政治的要求を認めさせようとした。義経に対する頼朝の仕打ちはすべてはその目論見のためであった。

この頼朝挑発説は、穿った解釈も認められるし、結果論であるという批判もある。しかし、壇ノ浦合戦後の義経と頼朝の不和の原因を解釈するためには、かなり説得力を持つものといえる

10月23日

・近江の武士、義経にくみせず、奥に引き退く。

「人云く、近江の武士等、義経等に與せず。奥方に引退すと。」(「玉葉」同23日条)。

10月23日

義経の縁者により河越重房が勝長寿院供養供奉人から外される。

「山内瀧口の三郎経俊が僕従伊勢の国より奔参す。申して云く、伊豫の守宣旨と称し近国の軍兵を催せらる。この間経俊を誅せんが為、去る十九日守護所を圍まる。定めて遁れざらんか。仰せに曰く、この事実證に非ざるか。経俊左右無く人に度らるべきの者に非ずと。経俊は勢州守護に補し置かるる所なり。明日御堂供養に御出の随兵以下供奉人の事、今日これを清撰せらる。その中河越の小太郎重房は、兼日件の衆に加えらるると雖も、豫州の縁者たるに依ってこれを除かる。」(「吾妻鏡」同日条)。


つづく


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