元暦2/文治元(1185)年
8月
・紀伊の豪族湯浅宗重一族500騎、平忠房を守護。源氏軍(熊野別当他)と3ヶ月抗戦。
8月4日
・頼朝、佐々木定綱に対し、近国の御家人を率い前備前守源行家(頼朝の叔父)追討を命じる。『吾妻鏡』によると、行家は西国にありながら、関東に昵懇であると称して所々で人民に譴責を加えており、しかも頼朝への叛意まで発覚したという。
行家は、義仲と決別した後、西国に潜伏していたらしい。それが、ここにきてにわかに叛意が発覚したという。後に行家は、義経とともに実際に頼朝に叛意を翻すが、この時点で叛意があったかどうかは不明であり、のちの経過を考えると、何ら罪科がないにも関わらず、嫌疑を掛けられたことで、むしろ叛意をもったというのが真実に見える(『吾妻鏡』10月13日条)。謀反発覚というのは、頼朝の挑発であった可能性が高く、行家がそれにまんまと乗ってしまい、これに義経が巻き込まれていく。
〈頼朝の狙い〉
①行家と義経を結びつける。
②在京御家人を使った幕府命令を実行させる体制を築く。以降、近江の佐々木定綱は在京御家人として畿内近国での追捕活動を行う。
「前の備前の守行家は二品の叔父なり。而るに度々平氏の軍陣に差し遣わさると雖も、終にその功を顕わさざるに依って、二品強ち賞翫せしめ給わず。備州また進んで参向無し。当時西国に半面し、関東の親昵を以て、在々所々に於いて人民を譴責す。しかのみならず、謀反の志を挿み、縡すでに発覚すと。仍って近国の御家人等を相具し、早く行家を追討すべきの由、今日御書を佐々木の太郎定綱に下さると。」(「吾妻鏡」同日条)。
8月14日
・「文治」改元。地震により文治に改元。
8月16日
・頼朝、朝廷から与えられた知行国6ヶ国(関東六分国)について、夫々、源氏一族から国司を任命。足利義兼(源姓足利氏)、上総介に。新田義範(伊豆守)・義経(伊予守)・大内惟義(相模守)・小笠原(加賀美)遠光(信濃守)・安田義資(越後守)。
右大臣九条兼実は「道路目を以てす。左右あたはず」と批判。義経の伊予守・検非違使兼任を「未曾有」と記す。頼朝は、義経を検非違使からはずす目論見で伊予守に任命するが、この目論見は外れる。但し、伊予が頼朝の知行国となり、これまで義経が保持していた伊予への権限が失われる。後に、義経が頼朝に反旗を掲げる理由の一つに、伊予を与えられたが、各地に地頭が配置され国務がとれないことが挙げられる(兼実「玉葉」)。
「今夜除目有り。頼朝申すに依ってなり。受領六ヶ国、皆源氏なり。この中、義経伊豫の守に任ず。兼ねて大夫の尉を帯すの條、未曾有々々々。」(「玉葉」同日条)。
この義経の大夫尉兼帯の背景にあったのは後白河であろう。後白河は頼朝の魂胆を見抜いおり、それを妨害したものと考えられる。後白河は、義経を引き続き自分に奉仕する忠実な武力として京都に留め置こうとした。
8月17日
・惟宗忠久、大隅・薩摩・日向の島津荘の下司に任命。
8月21日
・「鹿島社神主中臣親廣と下河邊の四郎政義と、御前に召され一決を遂ぐ。これ常陸の国橘郷は、彼の社領に奉寄せられをはんぬ。而るに政義当国南郡の惣地頭職を以て、郡内に在りと称し、件の郷を押領し、神主の妻子等を譴責せしむ。剰え所勘に従うべきの由祭文を取るの旨、親廣これを訴え申す。政義雌伏し、頗る陳詞を失う。眼代等の所為たるかの由これを称す。仍って向後は濫妨を停止し、先例に任せ神事を勤行せしむべきの趣、神主恩裁を蒙る。」(「吾妻鏡」同日条)。
8月23日
・重源、東大寺大仏胎内に仏舎利等を奉納。
8月23日
・兼実、28日に行われる予定の東大寺大仏の開眼供養の際その胎内に納めるため、みずから反故の色紙を漉いて造った黄紙に『清浄経』二部を書写し、これを弟の慈円に託す。一部は先に亡くなった母親のため、もう一部は近年の合戦で死亡した人びと、先帝以下の高官たちの菩提をとぶらうためであったという。
「無動寺法印〈慈円〉如法経を相具し、笠置寺に参らる。先師法親王(覚快)のため、如法経を書写し、かの霊崛に瘞(うづ)め奉らんためなり。又黄紙同清浄経二部を書写す〈一部は先妣の奉為(おんため)、余反古の色紙を漉きこれを送る。一部は近年合戦の間、死亡候ふ輩、先帝を始め奉り大官に至るまで、十(一ヵ)に出離のためなり〉。東大寺に送り大仏の御身に籠め奉らるるなり。」(『玉葉』)
8月23日
・この日、院の御所の持仏堂でも、兵乱で命を落とした人びとの鎮魂のため一万基の五輪塔の供養が行われた。
「怨霊を鎮めることは八月二十三日にも行われている。兵乱において亡くなった人びとの罪障を滅するために、五輪塔一万基の供養が院の御所の持仏堂である長講堂において行われた。五輪の地輪の下には塔を寄せた人の名字が記されて棚の上に置かれ、三井寺の公顕を導師に迎えてなされたのであった。また、兼実は大仏の供養に先立って、大仏の胎内に仏舎利三粒と五色の五輪塔を納めるとともに、亡母と源平の合戦で亡くなった死者の霊を慰めるために経を納めている。大仏は他ならぬ平氏の手によって焼かれたものであったから、その再興には平家の怨霊を鎮撫する意味が含まれていたのである。」(五味文彦『大仏再建-中世民衆の熱狂』)
8月23日
・「為久京都よりまた参着す。新造の御堂を画図せんが為なり。」(「吾妻鏡」同日条)。
8月24日
・「下河邊庄司行平帰参の御免を蒙り、鎮西より去る夜参着す。これ参州に相副え西海に発向し、軍忠を竭しをはんぬ。同時に遣わさるる所の御家人等、経廻に堪えずして多く以て帰参す。行平今に在国す。御感有りと。今日営中に参り盃酒を献ず。・・・仰せに曰く、行平は日本無双の弓取なり。・・・今度の勲功に依って、一国の守護職に宛て行わんと欲す。何国や請うべしてえり。行平申して云く、播磨の国は須磨・明石等の勝地有り。書写山の如きの霊場有り。尤も所望すと。早く御計有るべきの由諾し仰せらると。」(「吾妻鏡」同日条)。
8月27日
・法皇、南都へ御幸。義経、供奉。
8月28日
・平重衡の南都焼き打ちで損傷を受けた東大寺大仏の開眼供養。後白河法皇、大仏に入眼(聖武天皇使用の筆を用いて)。
後白河自ら開眼会の導師になった。大仏は鋳造されても、鍍金はまだ仏面だけであったが(天平の開眼供養も同じ)、後白河は大仏面前に渡された板に、近臣の助けを借りながらよじ登り、天平の開眼時の筆を用いて、自ら開眼を行う。この入眼(じゅがん)は式次第では仏師が行うようになっていた(『玉葉』8月29日条)。周囲は京都大地震の余震を心配して止めたが、後白河は地震で階(きざはし)が壊れ命を失っても後悔しないと言いきった(『山槐記』)
兼実は、事前に清浄経を送ってはいるものの、当日になっても、「半作の供養、中間の開眼」と批判し、実施に反対の意向を書き留めている(『玉葉』8月28日)。
前日から後白河や八条院をはじめ「洛中の緇素(しそ)貴賤」がこぞって南都に下向しており、当日集まった牛車や輿は数知れず、雑人も「恒砂(こうしゃ)」(ガンジス川の砂、数が多いたとえ)のごとしであったという。諸人は結縁(けちえん)を求め、感激のあまりにその場で剃髪する者、出家を願う者があとを絶たなかった。
当日の様子を知らせる兼実宛て源雅頼の手紙には、「善の綱(本尊開眼の時、結縁のため仏像の手などにかけ、参詣者に引かせる綱、五色の糸が用いられる)とて糸数丈候ひき、諸人念珠を結び付け、もしくは紳(花カ)鬘等を懸け、雑人腰刀をもつて部隊上に投げ入れ、上人の弟子等出で来、これを取り集め候ひき」とある(『玉葉』8月30日条)
民衆が自らの腰刀を法会の舞台上に投げ入れ、それを重源の弟子が取り集めたという。これは予め想定されていた儀式の一部ではなく、戦いを厭い平和を願う人々の思いが噴出したものであった。
8月31日
・頼朝、父義朝の霊を弔うため建立した勝長寿院供養に奔走。この日、大江公朝が勅使として、義朝の首を鎌倉へ持参。9月1日頼朝と対面。
つづく
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