元暦2/文治元(1185)年
5月8日
・頼朝、大江広元・三善康信・藤原俊兼・二階堂行政らと協議しあらためて鎮西の戦後処理を定める。
範頼に対して、平氏方についた宇佐大宮司公房の免罪・安堵や字佐宮の神殿造替、平氏家人(けにん)平貞能(たいらのさだよし)・盛国らの所領調査と没官などが指令され、同じく九州に駐留していた和田義盛には、西国御家人交名(きようみよう)の注進が命じられた。"
「一、宇佐大宮司公房日来平家の祈祷を致すと雖も、御敬神に依って、元の如く宮務を管領すべき事。・・・一、西国御家人の交名、義盛に仰せ注進せしむべき事。」(「吾妻鏡」同日条)。
5月9日
・「渋谷の五郎重助、関東の御挙に預からず任官せしむ事、召名を申し止めらるべきの旨、重ねて沙汰有り。(父重国は石橋山で頼朝を射るが後赦される。重助は、平氏・義仲・義経に従う)。條々の科精兵の一事に優ぜらるるの処、結句任官せしめをはんぬ。旁々然るべからざるの由その沙汰有り。今度、重国また豊後の国に渡るの時は、先登の功有りと雖も、参州に先立ち上洛するの條、同じく以て不快。則ちこの條々を仰せ遣わさると。また原田の所知は、勲功の輩に分ち宛てらるべきの由、参州に仰せ遣わさると。」(「吾妻鏡」同日条)。
5月10日
・前上総介の伊藤忠清(忠清法師、忠光・景清の父)、志摩国麻生(おうの)浦において加藤光員(みつかず)の郎党らによって捕縛、都へ護送され、鎌倉に送られることもなく、5月16日、六條河原で斬られ梟首された。
5月10日
・壇ノ浦合戦後、九州に留まることを命じられた範頼は、配下の武士等の狼籍を押さえることができず、方々から訴えられていた。この月、宇佐宮の黄金の御正体(みしょうたい)や流記文書(るきもんじょ)が武士のために押し取られ、また、豊後の大山寺(たいせんじ)も寺滅亡の由(武士の狼藉が激しいことをいう)の解状を進めてきた。どちらも範頼の所行であったという(『書記』5月10日条)。
「右衛門権の佐棟範、殿下の御使として院に参上す。申して云く、宇佐宮黄金の御正体並びに流記の文書、武士の為追捕し取らるると。山の執当澄雲参上す。大山同じく滅亡せらるの由、解状を進す。皆これ参河の守範頼が所行なり。天の我が朝を滅すか。恐るべし。々々。」(「吉記」同日条)。
5月11日
・吉田経房は後白河から、「管国」(太宰府の管内の国々つまり九州)で狼籍があると各所から訴えがある。早く範頼を召し上げることを、頼朝のもとに仰せ遣わせという指示を受ける(『吉記』5月11日条)。
「午上参院す(押小路殿)。大蔵卿に付き頼朝卿の申状・事書状(昨日到来)、並びに彼の卿進す所の使の沙汰を致す武士妨げの庄園等の注文を奏す。その次いでに仰せて云く、管国等狼藉有るの由、所々より訴え有り。早く範頼を召し上すべし。また頼朝卿の許に仰せ遣わすべし。件の事申し沙汰すべしてえり。承るの由を申し、次いで退出す。」(「吉記」同日条)。
5月15日
・義経一行、相模酒勾に到着。義経、堀景光を派遣して明日16日鎌倉入りを伝える。頼朝は結城朝光を義経に遣わし、北条時政を遣わして宗盛らを迎え取るので、義経は鎌倉入りせず近くに逗留するよう命じる。
「廷尉の使者(景光)参着す。前の内府父子を相具し参向せしむ。去る七日出京、今夜酒匂の駅に着かんと欲す。明日鎌倉に入るべきの由これを申す。北條殿御使として、酒匂の宿に向かわしめ給う。これ前の内府を迎え取らんが為なり。武者所宗親・工藤の小次郎行光等を相具せらると。廷尉に於いては、左右無く鎌倉に参るべからず、暫くその辺に逗留し、召しに随うべきの由仰せ遣わさると。小山の七郎朝光使節たりと。」(「吾妻鏡」同日条)。
5月16日
・平宗盛(輿)・清宗(馬)ほか平家の捕虜8名(平盛国・源則清・源季貞・盛澄・藤原信康・藤原経景・家村・成良(阿波の民部大夫))、鎌倉入り。鎌倉御家人数騎が付き添い、若宮大路~横大路経由、大倉御所の西対(にしのたい)が居所に当てられる(丁重な扱いを受けている)。幕府の一角には重衡も監禁されているが、対面の機会は与えられず。平盛国は、岡崎義実に預けられる。
この日の夜、大江広元は頼朝の仰せを受けて宗盛父子に膳を進めたが、宗盛は口にせず、「ただ愁涙に溺るるのほか他無し」であったと『吾妻鏡』は記す。
源光季・季貞一族:清和源氏の武門。源重時(鳥羽院の北面四天王の1人)の養子4人の1人に季遠(平忠盛の青侍、忠盛の同僚重時が見込んで養子とする)。この季遠の子が光季(光遠)・季貞。
①光季(光遠)。彼の養子が前信濃守源則清(捕虜の1人)。光遠は、西海に赴かないが元暦元年2~3月頃逮捕。息子の民部大丞光行と三善康信が鎌倉に行き助命、容れられる。
②季貞。6月、季貞の子宗季が父の安否を気遣い関東へ下向、頼朝は宗季を御家人に列し、季貞を釈放。
田口成良(重能阿波民部大夫)の返忠が壇ノ浦勝利の1要因ではあるが、義経はこれを認めず、成良・教良父子を鎌倉に連行。成良は処刑。嫡男教良は禁錮12年後処刑(但し、教良の子女は許されるという)。
「今日、前の内府鎌倉に入る。観る者垣墻の如し。内府は輿を用い、金吾は乗馬す。家人則清・盛国入道・季貞(以上前の廷尉)・盛澄・経景・信康・家村等同じく騎馬これに相従う。若宮大路を経て横大路に至り、暫く輿を留む。宗親先ず参入し、事の由を申し入る。則ち営中に招き入るべきの旨仰せらる。仍って西の対を以て彼の父子の居所と為す。夜に入り因州仰せを奉り膳を羞むと雖も、内府敢えてこれを用いず。ただ愁涙に溺れるの外他に無しと。この下向の事、並びに同父子及び残党の罪條々の事、二品経房卿に属き奏聞せらるの処、その沙汰有り。招き下すべし。また死罪に行わるべきの旨、勅許すでにをはんぬ。」(「吾妻鏡」同日条)。
5月17日
・一条能保(頼朝の妹婿)一行、鎌倉入り。頼朝は同母妹(能保の妻)、26年ぶり対面。前日(16日)にあった、一条能保の侍後藤基清の僕従と、義経の家来伊勢能盛の下部との乱闘の事が、頼朝に伝わり、義経の下部の傲慢さに怒り、義経への心証を更に悪くする
「卯の刻左典厩(能保、去る七日廷尉と同日出京)到着す。直に営中に入れらる。昨日極熱の間、聊か霍乱の気有り、逗留の由これを申さると。昨日、左典厩の侍後藤新兵衛の尉基清が僕従と、廷尉の侍伊勢の三郎能盛が下部と闘乱す。これ能盛献餉を沙汰するの間、基清彼の旅舘の前を馳せ過ぐ。その後旅具を持たせむ所の疋夫等進行するの処、能盛が引馬基清の所従を踏む。仍って相互諍論に及ぶ。この間基清が所従刀を取り、件の馬の鞦・手綱を切り奔行す。能盛この事を聞き馳せ出て、竹根の引目を以て、残る所の疋夫を射る。彼等叫喚せしめ馳せ騒ぐ。基清またこれを聞き駕を廻らし、能盛と雌雄を決せんと欲す。典厩頻りにこれを抑留し、使者を廷尉の許に発せらる。廷尉またこれを相鎮められ、無為すと。この事典厩強ち訴え申さずと雖も、自ずと二品の聴に達す。能盛が下部等驕りを成すの條奇怪の由、御気色甚だしと。」(「吾妻鏡」同日条)。
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