元暦2/文治元(1185)年
5月24日
・義経、頼朝に鎌倉入りを止められる。腰越より書を大江広元に送り弁疏(「腰越状」)。
広元はそれを頼朝に披露したが、頼朝からは特に明確な仰せもなく、追って沙汰するというものであった(『吾妻鏡』同日条)。
①平氏追討という大きな勲功をたてたにも関わらず、「虎口の讒言」のためにかえって頼朝の勘気を蒙り、しかも鎌倉に入れてもらえず、自分の真意を直接伝えられずに悲しんでいること。
②辛酸を舐めた生い立ち。
③一連の平氏追討戦での苦労は、ひとえに義朝の無念を晴らすという「年来の宿望」を果たすため以外のなにものでもなく、その賞として五位の検非違使の尉(大夫尉)に補任されたのは、家の面目であること。
④神仏に頼るしかないと思い、数通の起請文を提出したものの、頼朝の許しはない。あとは貴殿(大江広元)の広大の慈悲にすがり、頼朝に心情を伝えてもらうしかないこと。
「腰越状」は『吾妻鏡』のよく知られたストーリーで、『平家物語』語り物系と同じである。「腰越状」をめぐっては、その文体や内容に古くから疑問が出されており、鎌倉時代中期に成立した義経伝説に基づく創作とする説が有力。慈円『愚笛抄』や『平家物語』諸本のなかで最も古態を示すとされる延慶本『平家物語』などは、義経が鎌倉に入ったことを伝えており、また頼朝が義経を畿内近国の軍政指揮官として再び上洛させ、8月16日に頼朝の申請により義経が伊予守に任じられた事実を見ても、鎌倉下向の時点で義経が頼朝から政治的に排斥されていたと理解することはできない。(義経の上洛、伊予守任官も、頼朝の謀略という別解釈がある。)
但し、頼朝の構想とは全く異なる形で義経による平氏追討が強行された以上、延慶本『平家物語』が、鎌倉での二人の対面を「イト打解タル気色モナクテ、詞スクナニテ」(第六本「頼朝判官ニ心置給事)と描いているように、両人の間に緊張関係が生じていたことは疑いのない事実と思われる。
「源廷尉、思いの如く朝敵を平らげをはんぬ。剰え前の内府を相具し参上す。その賞兼ねて疑わざるの処、日来不義の聞こえ有るに依って、忽ち御気色を蒙り、鎌倉中に入れられず。腰越の駅に於いて徒に日を渉るの間、愁欝の余り、因幡の前司廣元に付き一通の歎状を奉る。廣元これを被覧すと雖も、敢えて分明の仰せ無し。追って左右有るべきの由と。彼の書に云く、
左衛門の少尉源義経恐れながら申し上げ候。・・・朝敵を傾け累代の弓箭の芸を顕わし、会稽の恥辱を雪ぐ。抽賞せらるべきの処、思いの外虎口の讒言に依って、莫大の勲功を黙止せらる。・・・鎌倉中に入れられざるの間、素意を述べるに能わず。・・・故頭殿御他界の間、孤児となり、母の懐中に抱かれ、大和の国宇多郡龍門の牧に赴くより以来、一日片時も安堵の思いに住せず。甲斐無きの命ばかりを存ずると雖も、京都の経廻難治の間、諸国に流行せしむ。身を在々所々に隠し、辺土遠国に栖まんと為し、土民百姓等に服仕せらる。・・・剰え義経五位の尉に補任するの條、当家の面目・希代の重職、何事かこれに如かずや。・・・茲に因って、諸神諸社の午王宝印の裏を以て、全く野心を挿まざるの旨、日本国中大小の神祇冥道に請驚し奉り、数通の起請文を書き進すと雖も、猶以て御宥免無し。・・・偏に貴殿広大の慈悲を仰ぐ。・・・」(「吾妻鏡」同日条)。
〈『平家物語』(巻第11「腰越」)〉
「金洗沢(かねあらひざは)に関すゑて、大臣殿父子(おほいとのふし)うけとり奉(たてま)ッて、判官をば腰越へおッかへさる。鎌倉殿は、随兵(ずいひやう)七重八重(ななへやへ)にすゑおいて、我が身は、そのなかにおはしましながら、「九郎は、この畳の下よりはひ出でんずる者なり。ただし、頼朝はせらるまじ」とぞ宣ひける。」
義経を追い返した頼朝は、警固の兵に七重も八重も取り囲ませて、その中に入り、「九郎義経は、この畳の下から這い出してくるかもしれぬ鋭い奴だ。しかし自分は、そうはさせぬぞ」と強がりながらも、厳重に警戒させるほどであった。
「判官思はれけるは、「こぞの正月、木曾義仲を追討せしよりこのかた、一の谷、壇浦にいたるまで、命をすてて平家をせめおとし、内侍所(ないしどころ)、璽(しるし)の御箱(おんばこ)、事ゆゑなくかへしいれ奉り、大将軍父子いけどりにして、具して、これまでくだりたらんには、たとひ、いかなるふしぎありとも、一度はなどか対面なかるべき。凡(およ)そは、九国(くこく)の惣追捕使(そうづいふくし)にもなされ、山陰(せんおん)、山陽(せんやお)、南海道、いづれにても預け、一方のかためともなされんずるとこそ思ひつるに、わづかに伊予国(いよのくに)ばかりを知行(ちぎやう)すべきよし仰せられて、鎌倉へだにも入れられぬこそ本意(ほい)なけれ。されば、こは何事ぞ。日本国をしつむる事、義仲、義経がしわざにあらずや。たとへば同じ父が子で、先に生(むま)るるを兄とし、後に生るるを弟(おとと)とするばかりなり。誰か天下を知らんに知らざるべき。あまッさへ、今度見参をだにもとげずして、おひのぼせらるるこそ遺恨(ゐこん)の次第なれ。謝(じや)するところを知らず」とつぶやかれけれども、力(ちから)なし。まツたく不忠なきよし、たびたび起請文をもツて申されけれども、景時が讒言によッて、鎌倉殿用(もち)ひ給はねば、判官、泣く泣く一通の状を書いて、広元のもとへつかはす。」
義仲追討、一の谷、壇ノ浦まで、すべて命を的にした義経の戦果であった。そのうえ義経は、平家の大将軍宗盛までを生捕りにし、意気揚々凱旋、いまこそ兄頼朝の前に、胸を張って現われようとしていた。しかし、現実は彼の予想を裏切って、はるかにきびしいものであった。義経は、みずからの戦果を回想しながら、会おうともしない兄頼朝にたいする恨めしさを語りつづける。この功労にたいしては、九州・山陽・山陰または南海道、少なくとも、そのどこかの地方を義経に預けられてもよいものを、わずかに小さい伊予国(愛媛県)一国の支配しか許されず、「しかも、鎌倉に入れてももらえない。「されば、こは何事ぞ」と、ついに義経は激して、日本国を鎮定したのは、義仲と義経、われわれ二人の戦果によるのではなかったか。いってみれば同じ父の子で、先に生まれた頼朝を兄とし、あとに生まれた自分を弟とするだけの違いではないか。戦い終わって国を治めることなど誰にでもできることだ。一目会うことさえしないで、都へ追い上せようとするなど、恨めしいかぎりである」と、ひとり憤懣をもらすが、その訴えを伝えるすべもない。
そこで義経は、頼朝に忠誠をちかう旨を神仏に誓約した文書を、たびたび差しだしたが、頼朝はとりあげてもくれない。義経は泣く泣く、そのころ幕府の有力者であった大江広元に、一通の書状を記して訴える。有名な、義経の「腰越状」である。義経はこの書状によって、平治の乱で父義朝が非業の死をとげてから後、みなし子となって母常磐の懐に抱かれ、雪深い大和路をさまよい歩き、さては所々方々に身をかくして、土民百姓に召し使われた苦労を語り、時到って木曾義仲を討ち滅ぼしてからこのかた、あるいは、駿馬に鞭打って険しい巌山を馳せ下り、あるいは、海に沈むこともおそれず暴風に船を乗り出すなど、平家打倒の宿願を達せんがためには、身命を死地に投げうち、源氏のために全力を注いできたことを述べて、願わくは、この誠意のほどを、なんとかして兄上に伝えられるよう、広大な貴殿のお慈悲におすがりする次第と、辞を低うして、せいいっぱいに訴えた。
しかし頼朝は、ついに義経の願いも聞きいれることなく、ただ、「いそいで京へ上れ」というばかりであった。
つづく
0 件のコメント:
コメントを投稿