〈藤原定家の時代205〉元暦2/文治元(1185)年3月24日 壇ノ浦合戦(8終)
〈平家谷、落人伝説〉
「平家谷」は、平家の落武者が住ついて開発したと信じられている部落を称する。多くが山奥の谷間にあるため、「平家谷」と呼ばれるが、平家落人伝説の地は、離島などにも求められている。
平家谷の分布は、日本全土に亘っている。中でも分布の濃厚なのは、九州、四国、中国の三地方である。対馬島や屋久島にも、更に琉球列島にも平家谷は存する。北は宮城県の鬼首(おにこうべ、玉造郡鳴子町鬼首)にまで及んでいる。
一般に著名な平家の落人部落には、
祖谷(いや)(徳島県) 五箇荘(ごかのしょう)(熊本県) 椎葉(しいば)、米良(めら)(宮崎県) 白川郷(岐阜県) 秋山(長野県) 田久日(たくい)(兵庫県) 落折(おちおり)(鳥取県)
等がある。
〈松永伍一の落人伝説否定論〉
「「平家伝説」の流布・波及は、『平家物語』のもつ説教的要素を無視し、滅亡した平家一門の誰彼を生きのびさせ、それを系図に書き記させる偽装工作の推進者・幇助者によって成ったのである。」
と指摘。平家部落は確実な裏づけをどこにも持っておらず、伝えられている系図の類も多くは文化・文政時代のものらしいと説き、更に、
「喰いちがいだらけの「平家伝説」が山間の各部落に共存できたのは、そういう保身のための体のいい謙譲のゆえであった。嘘を見破られないためには相手の嘘をも見破ってはならないという、この偽りを許し合う雰囲気があればこそ、「平家伝説」が自在な展がりと彩りを添えることができたと判断することもできよう。」
とする。
松永伍一は、あらゆる平家落人伝説に史実性を認めず、西日本の山間部や離島に見られる平家落人伝説は、辺境に生きる人びとが平野の民からの蔑視に対抗するための精神の砦として創り出したものと言う断を下している。
〈角田文衛の平家落人伝説虚構論〉
「著者は多数の平家落人伝説は、その九割九分までが史実性を欠いた虚構であると思考している。これらに共通する型は、
①平家の公達の某が死ぬと見せかけ、或いは身代りを立てて戦場から離脱し、部下と共に深山または離島に隠れ住んだ、
②敵の追及から逃れるため、彼らはひたすら身分を隠していた、
③系図は存したが、ある時、焼けてしまった。現存の系図は、もとの系図に関する追憶に基づいて記されたものである、
④どことも交りを絶ち、永いあいだひっそりと深山(または離島)に住んでいたが、ふとしたこと(例えば、箸ないし椀が下流に流れて行ったこと)から彼らの存在は里人の知るところとなった。
と言ったことどもである。
壇ノ浦からわ落人は、武士ばかりであって、絶無とは言えぬまでも女性を混えていなかった。これら落人の小集団が山地や離島に逃げ込んだとしても、里人と関係を結ばぬ限り、子孫を儲けることは出来ない。大部分の落人伝説は、この重大問題を無視ないし等閑視しているのである。」(『平家後抄』)
つづく
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