元暦2/文治元(1185)年
7月9日
・文治地震(又は元暦地震)。京都に直下型大地震(M7.4と推定)
午刻激震あり。宮中の築垣、大内日花門、閑院西辺廊、法勝寺阿弥陀堂が倒壊、九重塔が破損、市中の民家の多くが倒壊。園庭に幄を設けて御所とする。大般若経転読あり。40余日余震が続き、皆病となる。得長寿院・蓮華王院・最勝光院以下の仏閣転倒破壊、皇居の閑院殿も破損大。音苑雷の如し。塵埃黒煙の如く日影見えず。山崩れ川埋まり、大地は稲妻の如く裂けて水湧き、盤石谷に転び人民六蓄死亡多数。学宴を停止。愛染王に祈祷し護摩を焚く。山稜使を立て、或いは諸社に奉弊使を遣わし、神仏の加護を祈る。義経の六条堀川屋敷は無事。
〈被害状況〉
①京都・白河
鴨川東岸のこの地には、「六勝寺」と称せられる法勝寺、最勝寺、円勝寺、成勝寺、尊勝寺,延勝寺のほか、蓮華蔵院、得長寿院、宝荘厳院などの御願寺が建立されていた。
このうち最大の法勝寺では、境内の八角九重大塔(高さ約82m)の屋根瓦、屋根板などすべてが落下し、相輪の上部も折れて落下するなどの被害を受けたが、大塔自体は倒壊していない。
「山槐記」や「玉葉」などによれば、法勝寺境内ではこの大塔の被害に加え、金堂廻廊、鐘楼、阿弥陀堂、北門などが顛倒したほか、ほとんどの築地塀などが倒壊した。この西側の尊勝寺では講堂、五大堂、四面築垣、西門などが倒壊。最勝寺では薬師堂、三面築垣などが倒壊、円勝寺でも築地が倒壊したほか五重塔の宝輪が破損した。得長寿院内の千体観音像を安置していた三十三間堂が倒壊。これ以外の寺院でも史料に記載されなかった多数の被害があったことが考えられる。
②東山
鴨川東岸の白河地区より南側のこの地域には、法住寺殿、蓮華王院、最勝光院などが造営されていた。最勝光院では北釣殿廊下の顛倒などの被害を受けたほか、多くの建物が傾いたり、部分的な破損を生じた。このほか、蓮華王院でも多くの堂舎で被害が生じた。これらの南側に隣接する新熊野神社では廻廊が倒壊したが、そのほかの建物は無事であった。
③市中
左京の鴨川沿いの法成寺では、廻廊と東面の築地塀がすべて顛倒したほか、その他の建物においても大きい被害を生じた。「山槐記」や「玉葉」によれば、公家の市中の邸宅のなかで、近衛邸(五条大路沿い)、この東に隣接する松殿邸、九条邸(九条大路東洞院)、八条院(八条大路東洞院)、六条殿(六条大路西洞院)や、閑院内裏(二条大路西洞院)では、寝殿、廻廊、車宿などの顛倒の被害が多数出た。
一方、庶民の家屋の被害については、京中の人屋多数顛倒あるいは損壊、東西に面した築垣は殆ど倒壊などの被害が生じたほか、これらによって多数の死傷者が出た。
また、市中の左京や白河、東山では地割れが多数起こり、地盤の液状化現象も発生した。
④京都盆地周辺
西方の御室周辺では、仁和寺境内の円宗寺の廻廊が倒壊し、また御室双ヶ岡南の法金剛院内の南御堂も倒壊したが、盆地東側に比べて西側での被害は比較的少なかったと思われる。また盆地西縁に位置する洛西善峰寺での被害は軽微であったと判断される。一方、南東側の山科盆地にある醍醐寺では、築地塀の被害が大きく、また付近の東安寺承香殿が倒壊したが、五重塔を含むその他の寺舎の被害はなかった。醍醐寺西方の勧修寺では、鐘楼、経蔵、廻廊などが顛倒するなどの大きい被害を生じた。
一方、京都盆地南方の宇治においては、宇治橋が崩壊して橋桁、橋板、欄干などすべてが宇治川に落下し、渡橋中の10余人が川へ落ち、1人が水死した。しかし、この宇治橋に近接する平等院では大きい被害は記録されていない。
また洛南の鳥羽には、離宮であった鳥羽殿の院御所内や周辺に、御願寺や多くの建物が建立されており、相当の被害を生じたと考えられるが、地震によるこれらの建物の損壊の記録は残されていない。
⑤近江
(a)比叡山延暦寺
比叡山には、根本中堂をはじめ壮大な堂塔伽藍が標高約650mの平坦地や尾根に立ち並んでいた。「吉記」などの史料によれば、戒壇院八足門、看衣堂、廻廊四面、恵心院、法華惣持院、灌頂堂、真言堂、廻廊など、延暦寺の中心である東塔において壊滅的被害を生じた。比叡山における地震動は特に激しかった様子。
(b)比叡山東麓坂本
日吉大社では、本殿、拝殿、彼岸所など多数の建物があったと考えられるが、「吉記」には倒壊した建物は八王子彼岸所が記載されているのみである。しかし、「華頂要略」では、山上坂本堂舎塔廟の多くが大破、顛倒に至ったことが裏付けられる。このほか坂本の町でも大きい被害があったと考えられる。
(c) 琵琶湖西岸南部
長等山東麓にあった園城寺(三井寺)では金堂の廻廊が倒壊したが、その他には被害の記録はなく、石山寺では建物倒壊などの被害記録は残ってない。
⑥琵琶湖沿岸
「山槐記」によれば、この地震に際して、近江琵琶湖の湖水が北流して湖岸が三段ないし五段(33-55m)後退し、後日回復したことや、沿岸の何処かで三丁の土地が水没したことなどが記述されている。このことは地震を発生させた断層運動によって、何処かの沿岸の土地が水没したことを示すものと考えられる。この事実は琵琶湖沿岸において大規模な地変を起こした断層運動を示唆する重要な記述と考えられる。
⑦奈良および大坂
(a) 奈良興福寺関係の史料には、「七月九日大地震、処々多顛倒」との記述が見られるが、興福寺境内には当時再建途上の建物5棟が存在するのみで、顛倒した建物の具体的名称もないため、この記述は伝聞による一般的な状況を示すものと思われる。
(b) 唐招提寺では中門や千手観音立像が倒壊したとの記述があるが、これらは当時すでに老朽化が進んでいたためと考えられる。
(c) 東大寺においては、この地震後の8月27日に大仏の開眼供養が無事行われているため、地震によって何らかの大きい被害を生じたとは考えられない。
(d) 大坂四天王寺においては、史料にこの地震による震動によって「瓦一枚落ちず、樹木一本倒れず」との記述があり、全く被害を生じなかったと思われる。
つづく
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