2022年12月5日月曜日

〈藤原定家の時代200〉元暦2/文治元(1185)年3月24日 壇ノ浦合戦(3) 〈『平家物語』巻11の中の壇ノ浦合戦〉 〈「鶏合壇浦合戦」〉 〈「先帝御入水の事」〉   

 

平家物語絵巻から 壇ノ浦合戦

〈藤原定家の時代199〉元暦2/文治元(1185)年3月24日 壇ノ浦合戦(2)  〈平氏の敗因〉 〈東アジアのなかの源平合戦〉 より続く

元暦2/文治元(1185)年3月24日 壇ノ浦合戦(3)

〈『平家物語』巻11の中の壇ノ浦合戦〉

〈「鶏合壇浦合戦(とりあはせだんのうらかつせん)」)〉

元暦2(1185)年3月24日卯刻(午前6時頃)、門司・赤間の関(関門海峡)で源平両軍の矢合わせがはじまる。

「すでに源平両方陣をあはせて時をつくる。上(かみ)は梵天までもきこえ、下は海竜神もおどろくらんとぞおぼえける。新中納言知盛卿、舟の屋形にたちいで、大音声をあげて宣ひけるは、「いくさは今日ぞかぎり、者ども、すこしもしりぞく心あるべからず。天竺、震旦(しんだん)にも日本我朝(につぽんわがてう)にも、ならびなき名将勇士といヘども、運命つきぬれば力及ばず。されども名こそ惜しけれ。東国の者どもに、よわけ見ゆな。いつのために命をば惜しむべき。これのみぞ思ふ事」と宣へば、飛騨三郎左衛門景経(けげつね)、御まへに候ひけるが、「これ承れ、侍(さぶらひ)ども」とぞ下知しける。」

源平両軍はどっと鬨の声をあげる。平家の大将軍知盛は、船の屋形に立ち現われ、「戦いは今日こそ最後だ。いかなる名将・勇士でも、運命つきれば力及ばぬ。されど、ものどもよ。武士としての名誉を惜しめ。いまこそ命を捨てるべき時だ。源氏のものどもに弱気を見せるな」と大号令を発する。知盛は、人間の運命を認めながらも、そのもとで全力的に生きてゆこうと、兵たちをはげました。

「上総悪七兵衛(かずさのあくしちびやうゑ)すすみ出(い)て申しけるは、「坂東武者は、馬のうへでこそ口はきき候とも、舟軍(ふないくさ)にはいつ調練(てうれん)し候べき。魚(うを)の木にのぽツたるでこそ候はんずれ。一々にとツて海につけ候はん」とぞ申したる。越中次郎兵衛申しけるは、「同じくは、大将軍の源九郎にくん給へ。九郎は色白うせいちいさきが、むかばのことにさしいでて、しるかんなるぞ。ただし、直垂と鎧を常に着かふなれば、きツと見わけがたかんなり」とぞ申しける。上総悪七兵衛申しけるは、「心こそたけくとも、その小冠者(こくわんじや)、何ほどの事かあるべき。片脇にはさんで海へいれなんものを」とぞ申したる。」

まず侍大将悪七兵衛景清が進みでて、「坂東武者は、馬の上でこそ口はきくが、船軍では魚の木に登ったも同然、いちいち、ひっ捕えて海に漬けてやろう」といえば、同じく侍大将越中次郎兵衛盛嗣は、「同じことなら大将軍の義経に組め、義経は色が白うて背は低く、前歯が、とりわけせせり出して、すぐわかるそうな。ただ直垂と鎧を、いつも着がえるから間違えるな」などという。

新中納言知盛は、宗盛の前に出て、侍たちの士気盛んであることを報告するが、ただひとつ、阿波民部重能(あわのみんぶしげよし)の態度がふにおちない。重能は心がわりしたにちがいない、斬って捨てよう、という。重能は阿波国(徳島県)の豪族、八島に平家を迎え内裏を造営するなど、落ち目になった平家を、守りぬいてきたほどであるから、宗盛は彼の動揺を見抜くことができない。証拠もないのに、どうして斬ったりすることができようと、はやる知盛をおさえてしまう。知盛はこのとき、「太刀の柄くたけよとにぎツて」、宗盛の方をしきりに見るが、ついに許してもらえない。

しかし知盛の目は正しかった。壇浦(だんのうら)の合戦は、はじめのうちこそ潮流に乗った平家が、まず勝ちどきをあげて、義経の陣もさんざんに射すくめられていたが、やがて潮の流れも反転し、知盛の予想どおり、重能は決定的な時点に寝返って、平家の戦法も、すべて源氏に筒抜けとなる。そのうえ重能の寝返りをきっかけに、四図・九州の軍勢も、つぎつぎと平家にそむいてしまう。このとき源氏の兵は、早くも平家の船に乗り移って、梶取りや船頭までを射殺し斬り殺したので、平家は船を動かすこともできなくなる。

二位尼はこの有様を見て、幼い天皇を抱き上げ、「波の下にも都はござりまする」と申しあげると、念仏とともに海底へ身を投じてしまう。建礼門院もつづいて入水、平家の武将たちは、つぎつぎと鎧をかさね、碇(いかり)を背負い、手に手をとって海に入る。

〈「先帝御入水の事」〉

阿鼻叫喚のなかで、二位尼時子は、安徳天皇と入水した。

二位尼が安徳幼帝とかわしたことば。

安徳「そもそも尼前(あまぜ)、われをばいづちへ具して行かんとはするぞ」

二位尼「君は末だ知し召され候はずや。先世(せんぜ)の十善戒行(かいぎよう)の御力によって、今万乗(ばんじよう)の主(あるじ)とは生れさせ給へども、悪縁に引かれて、御運已に尽きさせ給ひ候ひぬ。先づ、東に向はせ給ひて、伊勢大神宮に御暇(おんいとま)申させおはしまし、その後、西に向はせ給ひて、西方浄土の来迎(らいごう)に預らんと誓はせおはしまして、御念仏侯ふべし。この国は粟散辺土(ぞくさんへんど)と申して、ものうき境(さかい)にて候。あの波の下にこそ、極楽浄土とてめでたき都の侯。それへ具し参らせ候ふぞ」

そういって二位尼は、八歳の天皇を抱き、「波の底にも都の候ふぞ」と慰めながら、海底に沈んだという。

『源平盛衰記』にのせる二位尼の辞世は、

今ぞ知る御裳裾(みもすそ)川の流れには浪の下にも都ありとは

『吾妻鏡』は、安徳を抱いて入水したのは二位尼時子ではなく按察局(あぜちのつぼね)であったといい、時子は宝剣を持して海底に沈んだとある。おそらくそれが事実であろう。そして安徳天皇も二位尼も浮ばなかったが、按察局は、続いて入水した建礼門院徳子と共に助けられている。女院は、硯、焼石を左右の懐に入れて海に入ったのを、渡辺源五右馬允昵に髪を熊手にかけられ引上げられた。


つづく


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