2022年12月24日土曜日

〈藤原定家の時代219〉元暦2/文治元(1185)年7月9日~7月26日 建礼門院徳子、大原の寂光院へ移る 後白河、義経に地震後の混乱に乗ずる群盗警戒を命じる

 


〈藤原定家の時代218〉元暦2/文治元(1185)年7月9日 文治地震(又は元暦地震) 『玉葉』 『方丈記』 『愚管抄』 『平家物語』巻12「大地震」 『吾妻鏡』 より続く

元暦2/文治元(1185)年

7月9日

この頃、建礼門院徳子、大原の寂光院へ移る。吉田の野河御所が地震によって大破、6月21日同母兄宗盛・清宗父子が斬刑に処され、深山の奥に幽居したいと考えるようになる。参議右兵衛督の四条家藤原隆房の室(女院の妹)が移動の世話をする。

7月12日
・頼朝、畿内近国に活動中の中原久経・近藤国平らに鎮西の巡検を命じる。義経が背後で後白河院を突上げ、頼朝の畿内近国の支配権を弱めようとしたとの見方もある。範頼の鎌倉への引き上げは、武士たちの狼藉を取り締まれていないとの理由で、5月から取り沙汰されていた。

平氏方の有力武士であった筑前国の原田種直や豊前国の板井種遠、筑前国の山鹿秀遠らの所領没官を進めている範頼に対しては、没官領に頼朝が正式に地頭職を補任するまでの間、現地を管理する沙汰人を置いて上洛するように指示。範頼は9月27日に入京、10月20日に鎌倉に帰着。

なお、薩摩・大隅をはじめとする南九州での没官活動は千葉常胤が、肥前・筑後など九州北西部での没官活動はのちに鎮西奉行(九国地頭)に補任される天野遠景が中心となって進められた。
「鎮西の事、且つは武士の自由の狼藉を止め、且つは顛倒の庄園旧の如く国司領家に附け、乃具を全うせんが為、早く院宣を申し下し、行き向かい巡検を遂ぐべきの由、久経・国平等に仰せらると。また平家追討の後、厳命に任せ、廷尉は則ち帰洛す。参州は今に鎮西に在り。而るに以て管国等狼藉有るの由、所々よりその訴え有り。早く件の範頼を召し上すべきの旨、これを仰せ下さると雖も、菊池・原田以下、平氏に同意するの輩掠領の事、彼の朝臣をして尋ね究めしむの由、二品覆奏せしめ給うの間、範頼の事、神社仏寺以下の領妨げを成さずんば、上洛せずと雖も何事か有らんや。上洛を企てば後悔有るべしてえり。相計らうべきの趣、重ねて院宣を下さるるの間、平家没官領、種直・種遠・秀遠等が所領、原田・板井・山鹿以下所々の事、地頭を定補せらるの程は、沙汰人を差し置き、心静かに帰洛せらるべきの由、今日参州の許に仰せ遣わさるる所なり。」(「吾妻鏡」同日条)。
7月12日
・義経、法皇より群盗警戒を命ぜらる。

「群盗の事、別して戒め沙汰すべきの由、大夫の尉義経に仰せらる。これ所々築垣皆頽れるの間、諸人愁歎の故なり。地震の事、法皇殊に以て御歎息有り。尤も然るべきか。」(「吉記」同日条)。
7月15日
「神護寺の文學房、関東の潤色を以て、院奏の便を得て、去る正月二十五日縁起状を捧げ、御手印を申し下すの後、寺領に寄付せんが為、近国に於いて庄園を煩わしむの由その聞こえ有り。二品殊に驚き思し食され、釈門の人爭か邪狂を現わさんや。早く然る如きの濫吹を停止すべきの由、下知せしめ給うべしと。俊兼これを奉行すと。」(「吾妻鏡」同日条)。
7月23日
「山城の介久兼二品の召しに依って、京都より参着す。これ陪従なり。神宴等の役、当時その人無し。仍って態と以て招き下せしめ給うと。」(「吾妻鏡」同日条)。

7月26日
・狩野介藤原宗茂、24日に流人の前権律師忠快が田方郡小河郷(三島市)の伊豆国府に到着と報告。忠快はここから配流地に送られる。

「前の律師忠快流人として、一昨日伊豆の国小河郷に到着するの由、宗茂これを申す。これ平家の縁坐なり。」(「吾妻鏡」同日条)。


つづく


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