2022年12月14日水曜日

〈藤原定家の時代209〉元暦2/文治元(1185)年4月27日 建礼門院徳子(31)・若宮・女房たち、壇ノ浦から入洛

 


〈藤原定家の時代208〉元暦2/文治元(1185)年4月25日~4月26日 宝剣以外の神器(神鏡・神璽)が京都に戻る(25日) 宗盛ら平家の捕虜の入洛(26日) より続く

元暦2/文治元(1185)年

4月27日

・建礼門院徳子(31)・若宮・女房たち、入洛。

建礼門院徳子(31)、右兵衛督隆房の八条堀河堂(八条大路南・堀河大路東)に入る(推測)。女院はここで実妹(隆房の妻)と再会。寿永3(1184)2月9日~3月2日重衡もここに滞留。28日、京都吉田辺りの律師実憲(東大寺僧、三位律師と呼ばれる)の坊に入る(「吾妻鏡」)。5月1日、落飾。京都東山長楽寺阿証坊上人印西(印誓)の所で仏門に入る。法名・真如覚。「六月廿一日に、吉田のほとりなる野河の御所(吉田近くの野河山荘)へ入らせ給ふ。」(長門本「平家物語」巻第20)。藤原経房「吉記」)によれば大原来迎院の本成房湛斅(たんごう)を戒師とする。

若宮:

高倉天皇第2皇子守貞(7)、後鳥羽天皇と同母兄、治承3(1179)年2月生れ。母は内裏女房の典侍(ないしのすけ)藤原殖(たね)子。知盛が養育。南御方(みなみのおんかた、知盛の妻、治部卿局じぶきようのつぼね)と宰相局(さいしようのつぼね、頼盛の娘、基家の妻)が乳母。平氏西走時に知盛夫妻がこれを伴う。その為、藤原範季が養育する同母弟尊成が皇位につく。「平家物語」「源平盛衰記」によれば、この日、後白河院は、侍従藤原信清・紀伊守藤原範光を草津に派遣し、生母殖子らの七条坊門第に移る。


壇ノ浦から引揚げて来た女性たち。

①北政所:清盛娘(第四女)の完(さだ)子、摂政藤原基通の正妻。

清盛は、娘の盛子をを関白基実の正妻に配したが、基実は24歳で早世。盛子は11歳で、子を産むには至っていなかった。清盛は、基実の子の基通の正妻に娘の完(さだ)子を配した。治承3年(1179)11月、基通が関白になると完子は北政所と呼ばれ家司が置かれ、寿永2年(1183)2月には従三位に叙せられた。基通は父基実と同様に平家寄りであった。基通は後白河とは男色関係にあった。寿永2年7月、完子は安徳天皇に供奉して西海へ向かった。この日、基通も大宮大路を南に下ったが、途中で反転し父基実の菩提寺、知足院内の西林寺に身を寄せ、その後、後白河の居る比叡山に駆け付けた。

壇ノ浦から帰還した完子を基通がどのように迎えたかは不明。基通は後鳥羽の摂政に返り咲いていた。

②廊の御方(ろうのおんかた):清盛娘(第八女)。

母は九條院(藤原呈子)の雑仕女であった常盤。常盤は、源義朝の妾となって今若丸(全成)、乙若丸(円成)、牛若丸(義経)の3人の息子を生んだ。更に、常磐は、大蔵卿藤原長成の後妻となり能成と娘を生んでいる。

常盤と清盛の間のこの娘は、壇ノ浦後、異母姉(兼雅の妻)の邸宅の上臈女房となり、廊の御方または三條殿と言う候名(さぶらいな)で仕えていた。のち、兼雅と関係が生じ、娘一人を産んでいる。廊の御方は、和琴の名手で、また能書の聞えが高く、人びとは手本をいただきたいと色とりどりの料紙を彼女の手許に差し置いた。しかしとても書ききれないため、いつも傍には美しい料紙が置かれていたので、周りに錦を敷いたような有様であったとのこと。

義経の厳しく探索されていた文治2年(1186)6月、常磐と娘は賀茂川と高野川の合流点に面して建っていた河崎観音堂の付近で捕えられ、厳しい尋問を受けた。

③大納言典侍:権大納言藤原邦綱の娘輔子。重衡の妻。典侍(ないしのすけ)従三位。神鏡をもって海中に入ろうとして果たさず捕らえられる。

④帥典侍(そつのすけ):権中納言藤原顕時の娘領(むね)子。権大納言時平の後妻・安徳天皇の乳母、藤原時長・行長らの叔母。典侍従三位。

⑤帥局。平時子の娘。はじめ建春門院に仕え、のち建礼門院の侍女。入水後、救出される。

⑥治部卿局(じぶきょうのつぼね):知盛未亡人。時子に仕え、「南の御方」と呼ばれ、二の宮守貞の乳母となり「治部卿」と名を変える。(詳細別記載 ↓)

⑦按察局(あぜちのつぼね):権大納言按察使藤原公通の娘、入水後救出される。「吾妻鏡」では安徳天皇を抱いて入水とされる。

⑧阿波内侍(あわのないし):少納言藤原憲通(信西)の孫、権右中弁貞憲の娘、建礼門院の側近に仕える掌侍。建礼門院の最後を看取る。

〈治部卿局〉

初め従二位・平時子に仕え「南御方(みなみのおんかた)」と呼ばれた。その間に同じ齢の知盛に見染められ、その妻になったという。この頃、院宮、高級貴族の女房で「何々(東、西・南など)の御方」という敬称をもって呼ばれていたのは、専ら大臣の娘であった。

治部卿局は、嘉応元年(1169)、18歳で知盛の子の知章を産んだ。

治承3年(1179)2月、典侍(ないしのすけ)藤原殖子(後の七條院)は高倉天皇との間に皇子・守貞を産んだ。清盛らの配慮によってこの皇子は知盛が養君として育てることとなり、彼の妻は、新皇子の乳母となり、候名を治部卿と改めた。この時、平頼盛の娘で、藤原基家の妻となっていた女性が皇子・守貞の乳母に採用された。

寿永2年(1183)7月、知盛夫妻は、第二皇子の守貞と、生まれたばかりの女児を連れて安徳天皇に供奉した。

文治元年(1185)4月、壇ノ浦後、皇子・守貞も治部卿局も都に戻った。

「二ノ宮もとられさせ給ひて、上西門院に養はれておはしけり。」(『愚管抄』巻5)

と見える通り、皇子・守貞は・上西門院・統(むね)子内親王の養子となり、この関係から治部卿局は、皇子の乳母として上西門院に仕えることとなった。皇子・守貞は、上西門院の乳母・一條の孫、殖子が産んだ皇子であった。

このように、彼女には上西門院という後ろ盾があり、兄(推定)は前権大納言藤原兼雅、父は入道太政大臣・忠雅はまだ健在で、彼女は孤独を託つ状態にはなかった。

彼女は皇子・守貞と共に藤原孝道に師事し、琵琶の道に精進した。後に彼女は秘伝を授けられ、皇子・守貞(後高倉院)と並んで琵琶の名手の一人に数えられる。"


〈清盛の娘たち(纏め)〉

①藤原兼雅の妻;清盛の第二女か?母は不明。兼雅は清盛の友、家成の外孫。比類のない絵の名手と伝えられ、勅命によって紫宸殿の御障子に『伊勢物語』から主題をとった絵を描いたと伝えられている。兼雅との間に忠経、家経以下の子を儲ける。

②徳子:建礼門院。生母は平時子。(既述)

③盛子;関白太政大臣基実の正妻となるが、基実は仁安元年(1166)7月早世。仁安2年(1167)11月、高倉天皇の准母とされ、従三位に叙し、准三后の礼遇を蒙った。清盛は、基実の遣領のうち殿下渡領(わたりりよう)だけを次ぎの関白の基房に渡し、摂関家のもつ厖大な所領(荘園、邸宅)や累代の日記、宝物の方は、基実の子・基通が成人するまで預ると言う口実のもとに盛子に相続させ、清盛自らが事実上これを支配・管理した。盛子は、治承3年(1179)6月24歳で没。後白河は、盛子の所領に帰していた摂関家領を基実の子女(基通以下)に伝領させず、これ召し上げて院の御領とした。これは右大臣兼実すら「過怠」と評価する程の行過ぎで、清盛による法皇幽閉を招いた有力な原因の一つをなした。

④藤原隆房の妻;初め平治の乱の立役者、権中納言・藤頼の子、信親の妻だったという。但し、この時、信親5歳、妻3~4歳だったらしい(『兵範記』など)。

承安元年(1171)頃、15歳ほどで家成の孫の隆房の妻となり、承安2年(1172)に隆衡を産む。母は、従二位平時子で、建礼門院徳子の直ぐ下の同母妹。『盛衰記』には、稀に見る筝琴(そうのこと)の名手であったと伝えられる。

⑤藤原基通の妻(北政所);(既述)

⑥藤原信隆の妻;信隆は後白河の近臣で清盛と親しい家成の後妻の甥。西海には赴かなかったと思われる。

⑦御子姫君;清盛と厳島神社の内侍(巫女)との子で清盛の第七子。治承4年秋、清盛は後白河の要請。翌養和元年(1181)正月、高倉上皇が没した後、中宮・徳子を後白河の後宮に入れるとの噂が立ち、清盛・時子夫妻も、これを承諾する気配を示した。計画は、徳子の強い拒否のために実現しなかったが、清盛はその代りに18歳になった御子姫君を法皇の後宮に納れようと図った。後白河は一旦はこれを辞退したが、正月25日、清盛は強引にこの入侍を実行。兼実はこれを酷評。「凡そ思慮の及ぶ所に非ず、指を弾いて余りあり。実に心浮き世なり。今日、故院(高倉天皇)の初七日なりと、云々」「禅門(清盛)の女(むすめ)、法皇に参るの間、種々の事などありと、云々。天下の災難奇異は、ただ近日にあり。漢家、本朝、往古来、比類なきの世なり。」(『玉葉』)。御子姫君は、入侍後間もなく没した。

清盛は、御子姫君の母、厳島内侍を越中守平盛俊に与える。盛俊は一の谷で戦死し、厳島内侍は土肥実平の妾になったと言われている。

⑧廊の御方;(既述)

皇子守貞(高倉天皇と藤原殖子(七条院)の子、のち後高倉院)。平知盛と妻の治部卿局は、皇子守貞を自邸に引取り育てる。壇ノ浦後、皇子守貞は、上西門院統子内親王(後白河院の同母姉)の養子となり、治部卿局も皇子の乳母として上西門院に仕える。守貞・治部卿局は共に藤原孝道に師事し琵琶の名手となる。

4月27日

・頼朝、従二位に昇進(宗盛逮捕の功績)。公卿の仲間入りをしたことになり、公卿の家の中心的家政機構を「政所」と称するという慣行に基づいて、正式に政所開設の資格を得ることになった。大江広元が公文所別当より政所別当に転じる。

義経、かつて義仲が命じられた院御厩別当に任じられる。

「吾妻鏡」での呼び方も、「武衛」(右兵衛佐であることから、兵衛佐の唐式官職)から「二品(にほん)」(二位に相当する皇族の位階)とよばれるようになる。前年、一の谷合戦後に従四位下に叙任なので、異例の超階。


つづく

0 件のコメント: