〈藤原定家の時代223〉元暦2/文治元(1185)年10月1日~10月14日 建礼門院徳子、寂光院に入る 梶原景季、鎌倉に帰り、義経の状況を報告 頼朝、義経を誅すべき事を謀る 土佐坊昌俊を義経暗殺の刺客として京へ派遣が決まる 「義経・行家同心し鎌倉に反く。日来内議有り。昨今すでに露顕すと」(『玉葉』) より続く
元暦2/文治元(1185)年
10月15日
・後白河法皇、石清水八幡宮に行幸。行幸の勧請として田中道清を筥崎宮検校に補任し、筥崎宮を石清水別宮とする。
10月15日
・「齋宮の用途進納せらるべきの由の事、並びに太神宮御領伊澤神戸・鈴母御厨・沼田御牧・員部神戸・田公御厨等所々、散在の武士その故無く押領する事、尋ね成敗せらるべき由の事、院宣到来す。」(「吾妻鏡」同日条)。
10月16日
・義経、参院。頼朝追討宣旨を請う。
勅許なければ、九州に下向するという。その気色は、天皇・上皇・臣下等を伴って下向する趣であった。そこで、後白河は左・右・内の三大臣にそのことを諮問した。
右大臣兼実は追討宣旨には慎重で、頼朝に事情をよく聞いて、そのうえで頼朝に罪科があれば宣旨を出すべきとの意見。兼実は頼朝シンパであり、これ以前、頼朝から摂政の推挙を受けていたが、そのために宣旨を出すことに慎重になっているのではなく、道理を述べていることを強調している。兼実は、義経の行動に一応の理解は示しながらも、義経は頼朝とは「父子の義」であるから、それを追討しようというのは「大逆罪」であると義経を非難もしている(『玉葉』17日条)。これによれば、義経は頼朝と父子の契りを結んでいたようで、だとすれば、義経の行為は不孝ということになるが、しかし、頼朝の義経に対する仕打ちも、父親の仕打ちとはいえない。
この諮問は17日早朝になされたらしいが、亥刻(午後10時前後)、義経第が襲撃されたとの報告が兼実のもとに入る。
10月16日
・源行家、祇候人の家屋を追捕し、北小路東洞院邸に移り住む。
10月17日
・堀川夜討。
土佐坊昌俊、武蔵児玉党の水尾谷十郎以下60余率い義経の六条室町亭を襲撃。義経は佐藤忠信らと闘い、行家も駆けつけ防戦、退散させる。
26日、義経、鞍馬山奥に逃亡の昌俊と郎党3人を捕縛、六条河原で斬首。義経、遂に頼朝への反抗を決意。昌俊派遣の目的は、義経を挙兵させることで、頼朝にとって暗殺の失敗・成功は問題ではない。
兼実は、「もし義経に本当に罪科があるならば、その身を拘禁して沙汰をすべきなのに、京都に置きながら刺客を差し向けるとは、狼籍も甚だしい」という(『玉葉』10月17日条)
なお、土佐房の襲撃は、頼朝の命による謀殺ではなく、事情を知った京中頼朝方の先制攻撃だったとの説もある。
「土左房昌俊、先日関東の厳命を含むに依って、水尾谷の十郎已下六十余騎の軍士を相具し、伊豫大夫判官義経の六条室町亭を襲う。時に豫州方の壮士等、西河の辺に逍遙するの間、残留する所の家人幾ばくならずと雖も、佐藤四郎兵衛の尉忠信等を相具し、自ら門戸を開き、懸け出て責め戦う。行家この事を伝え聞き、後面より来たり加わり、相共に防戦す。仍って小時昌俊退散す。豫州の家人等、豫州の命を蒙り則ち仙洞に馳参す。無為の由を奏すと。」(「吾妻鏡」同日条)。
「去る十一日、義経奏聞して云く、行家すでに頼朝に反きをはんぬ。制止を加うと雖も叶うべからず。この為如何てえり。仰せに云く、相構えて制止を加うべしてえり。同十三日、また申して云く、行家が謀叛制止を加うと雖も、敢えて承引せず。仍って義経同意しをはんぬ。その故は、身命を君に奉り、大功を成すこと再三に及ぶ。皆これ頼朝代官なり。殊に賞翫すべきの由存ぜしむるの処、適々恩に浴す所の伊豫の国、皆地頭を補し、国務に能わず。また没官の所々二十余ヶ所、先日頼朝分賜す。而るに今度勲功の後、皆悉く取り返し、郎従等に宛て給いをはんぬ。今に於いては、生涯全く以て執思すべからず。何ぞ況や郎従を遣わし、義経を誅すべきの由、慥にその告げを得る。遁れんと欲すと雖も叶うべからず。仍って墨俣の辺に向かい、一箭を射、死生を決するの由所存なりと。仰せに云く、殊に驚き思し食す。猶行家を制止すべしてえり。その後無音。去る夜重ねて申して云く、猶行家に同意しをはんぬ。子細は先度言上す。今に於いては、頼朝を追討すべきの由、宣旨を賜わんと欲す。もし勅許無くんば、身の暇を給い鎮西に向かうべしと。その気色を見るに、主上・法皇已下、臣下上官、皆悉く相率い下向すべきの趣なり。すでにこれ殊勝の大事なり。この上の事何様沙汰有るべきか。能く思量し計奏すべしてえり。・・・亥の刻、人走り来たり告げて云く、・・・頼朝郎従の中、小玉党(武蔵国住人)三十余騎、中人の告げを以て義経の家に寄せ攻む(院の御所近辺なり)。殆ど勝ちに乗らんと欲するの間、行家この事を聞き馳せ向かい、件の小玉党を追い散らしをはんぬ。」(「玉葉」同日条)。
10月18日
・後白河法皇(59)、義経・行家に頼朝追討の院宣を下す(すでに11、13、16日に義経らから頼朝追討の院宣を促されている)。
後白河院は院御所六条殿に左大臣藤原経宗・内大臣藤原実定を召集しただけで、「更に議定に及ぶべからず」(『玉葉』10月19日条)として宣旨発給を決定。
しかし、畿内の武将は義経から離反し頼朝側についたため失敗。
院の見通し:
今の状況では、京には義経の他に警衛する武士はいない、勅許を出さず彼等が濫行に及べば防御できない。勅許が出ないならば、彼等は天皇・上皇を鎮西に連れて下る気配もある。今の難を逃れるには当面勅許を与え、のち事情を頼朝に伝えれば、頼朝も憤らないだろう。(『玉葉』18日・19日条・『吾妻鏡』18日条)。しかし、兼実が危惧したように、この見通しは甘いものであった。
「義経言上の事、勅許有るべきか否や。昨日仙洞に於いて議定有り。而るに当時義経の外警衛の士無し。勅許を蒙らずんば、もし濫行に及ぶの時、何者に仰せて防禦せらるべきや。今の難を遁れんが為、[先ず宣下し、追って子細を関東に仰せられば、二品定めてその憤り無きかの由治定す。仍って]宣旨を下さる。・・・従二位源頼朝卿偏に武威を耀かし、すでに朝憲を忘る。宜しく前の備前の守源朝臣行家・左衛門の少尉同朝臣義経等をして彼の卿を追討せしむべし。蔵人頭左大弁兼皇后宮亮藤原光雅(奉る) 」(「吾妻鏡」同日条)。
義経・頼朝の対決を知った京中の貴賤は、「落ちて関東へ行く者もあり、又止まりて判官に付く者もあり」という状態で、「上下、なにとなく周章(あわて)迷(まよ)へり」というような騒然たる状況にあった(延慶本『平家物語』巻12・8)
つづく
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