2022年12月6日火曜日

〈藤原定家の時代201〉元暦2/文治元(1185)年3月24日 壇ノ浦合戦(4) 〈『平家物語』巻11の中の壇ノ浦合戦〉 〈「能登殿最後」〉 〈知盛の最期〉 〈生き残った人々〉

 


〈藤原定家の時代200〉元暦2/文治元(1185)年3月24日 壇ノ浦合戦(3) 〈『平家物語』巻11の中の壇ノ浦合戦〉 〈「鶏合壇浦合戦」〉 〈「先帝御入水の事」〉 より続く

元暦2/文治元(1185)年3月24日 壇ノ浦合戦(4)

〈『平家物語』巻11の中の壇ノ浦合戦〉

〈「能登殿最後」〉

乱戦の中で、能登守教経(のりつね)は、大太刀と大長刀を左右の手に持ち、源氏の兵をなぎ倒しながら、ただひとり、いつまでも戦いつづけていた。

「新中納言使者をたてて、「能登殿、いたう罪なつくり給ひそ、さりとて、よきかたきか」と宣ひければ、さては大将軍にくめごさんなれと心えで、打物(うちもの)くきみじかにとツて、源氏の舟に乗りうつり乗りうつり、をめきさけんでせめたたかふ。判官を見知り給はねば、物具(もののぐ)のよき武者をば判官かと、めをかけてはせまはる。判官もさきに心えて、おもてにたつ様(やう)にはしけれども、とかくちがひて能登殿にはくまれず。されどもいかがしたりけむ、判官の舟に乗りあたッて、あはやと目をかけて、とんでかかるに、判官かなはじとや思はれけん、長刀脇にかいはさみ、みかたの舟の二丈ばかりのいたりけるに、ゆらりととび乗り給ひぬ。能登殿は、はやわざやおとられたりけん、やがてつづいてもとび給はず。」

能登守が、いつまでも戦いつづけているのを見た知盛は、使いをやって、「もう、これ以上、罪つくりな殺生はなさるな。たいした敵でもあるまいに」と伝えさせるが、教経は知盛のことばを、「そんな雑兵などと戦うな。大将軍に組め」と聞きとり、義経をさがして、源氏の船に乗り移り乗り移りするが、義経を見知っていないので、りつばな武装をした武将を義経かと思って追いまわした。義経もそれと知って、とかくかけ違っては逃げていたが、どうしたはずみか、ついに教経は義経と出会ってしまう。そのとき教経は、義経を目がけて飛びかかっていったが、義経は長刀を脇にかかえて、二丈ばかり(約6m)かなたにいた味方の船に、ゆらりと跳び移ってしまった。

「いまはかうと思はれければ、太刀、長刀海へ投げいれ、甲もぬいですてられけり。鎧の草摺(くさずり)かなぐりすて、胴ばかり着て大童(おほわらは)になり、大手をひろげてたたれたり。凡(およ)そ、あたりをはらツてぞ見えたりける。おそろしなンどもおろかなり。能登殿、大音声をあげて、「われと思はん者どもは、寄ッて教経にくんで、いけどりにせよ。鎌倉へくだッて頼朝にあうて、もの一詞(ひとことば)いはんと思ふぞ。寄れや寄れ」と宣へども、寄る者一人もなかりけり。」

教経は、いまはこれまでと覚悟をきめ、太刀・長刀を海に投げ入れ、甲も脱ぎ捨て、ざんばら髪になると、大手をひろげで、「われと思わん者は、教経に組みついて生掘りにせよ。鎌倉に下って頼朝にひとこといいたいことがある。さあ、寄れや寄れ」というが、だれひとりとして近づくものはいない。

「ここに土佐国の住人、安芸郷を知行しける安芸大領実康(あきのだいりやうさねやす)が子に、安芸太郎実光とて、卅入(さんじふにん)が力もツたる大力の剛の者あり。われにちッともおとらぬ郎等一人(いちにん)、弟の次郎も普通にはすぐれたるしたたか者なり。安芸の太郎、能登殿を見奉(たてま)ッて申しけるは、「いかに猛うましますとも、我等三人とりついたらんに、たとひ、たけ十丈の鬼なりとも、などか、したがへざるべき」とて、主従三人小舟に乗ッて、能登殿の舟におしならべ、「えい」といひて乗りうつり、甲(かぶと)の錣(しころ)をかたぶけ、太刀をぬいて一面にうッてかかる。能登殿ちッともさわざ給はず、まツさきにすすんだる安芸太郎が郎等を、裾をあはせて、海へどうとけいれ給ふ。つづいて寄る安芸太郎を、弓手(ゆんで)の脇にとツてはさみ、弟の次郎をば馬手(めて)の脇にかいはさみ、一(ひと)しめしめて、「いざうれ、さらばおのれら、死途(しで)の山のともせよ」とて、生年廿六にて、海へつッとぞいり給ふ。」

能登守の勢いに気おされて、源氏の兵は誰ひとり寄りつこうともしない。このとき、土佐国(高知県)の住人、安芸太郎実光という三十人力の剛のものが、弟の次郎と家来ひとりの三人で、小舟に乗って能登守の船に寄せると、いっせいに討ってかかった。能登守は、まっ先に進む安芸太郎の家来を、海の中へ蹴り入れ、つづく太郎を左の脇に、弟の次郎を右脇にかかえこむと、「さらば貴様ら、死出の山の供をしろ」というなり、海へさっと身を投じてしまう。享年二十六歳、壮烈な最期である。

〈知盛の最期〉

知盛は、いよいよ敗戦必至の時、安徳天皇の乗船を見苦しからぬよう自ら掃き清め、女房たちが口々に「中納言殿、いくさはいかにや、いかに」と問うたところ、「めづらしきあづま男(おのこ)をこそ御らん(覧)ぜられ候はんずらめ」と答え、「からからと」笑ったという。

そして、最後、知盛は、「「見るべき程の事は見つ、いまは自害せん」とて、乳母子(めのとこ)の伊賀平内左衛門家長をめして、いかに、「約束はたがうまじきか」とのたまえば、「仔細にや及び侯」と、中納言に鎧二領きせ奉り、わが身も鎧二領着て、手をとりくんで海へぞ入りにける。これを見て侍ども二十余人、おくれたてまつらじと、手に手を取りくんで、一所に沈みけり。・・・・・海上には赤旗赤印なげ捨て、かなぐり捨てたりければ、竜田川のもみじ葉を嵐の吹き散らしたるがごとし。汀(みぎわ)によする白波も薄紅にぞなりにける。主もなき空しき船は、潮に引かれ風に随いて、いずくをさすともなくゆられ行くこそ悲しけれ。」

〈生き残った人々〉

壇ノ浦で描虜となった人々は、『平家物語』によると、男は平家一門とその家人たち計38人(宗盛・時忠・清宗・信基・時実・能宗・雅明・僧都専親・能円・律師仲快・経誦坊阿闍梨融円・源季貞・摂津判官盛澄・藤内左衛門尉信康・阿波重能)、女性は女院や清盛の四女で基通の妻となった寛子をはじめ43人(廊御方・大納言佐殿・帥佐殿・治部卿局など)、あわせて81人だという。このなかで鎌倉時代を生き延びた女房たちは多い。たとえば知盛の妻の七条院治部卿局は、養君であった守貞親王(高倉天皇第二皇子)とともに生きて都に帰還した。親王と頼盛の孫娘との間に生まれたのが、承久の乱後幕府の後押しで即位した後堀河天皇で、親王自身は皇位に就かなかったはじめての上皇となり、後高倉院政を開いた。

彼女らは戦闘を実際目の当たりにしたので、知盛の最期も史実を伝えているかもしれない。或いは、妻が夫の最期を理想化して伝えたとも考えられる。

知盛が語った「めづらしきあづま男をこそ御らん(覧)ぜられ候はんずらめ」の「覧(る)」は、たんにものの存在に目を留めるという意味にとどまらない。とくに男女の間では、ただ顔を合わせたというだけでなく、肉体関係を持つ、結婚するという内容を有することが多い。それはこの場合「御らん」の前に、語り本系の屋代本では「今日ヨリ後ハ」、読み本系の南都本では「今日ヨリハ」とあるところからも明らかである。だから知盛は、冗談めかして東国武士の陵辱の対象となる覚悟を促していると解される。囚われ人、より露骨にいえば東国武士の戦利品であり、慰みもの、略奪の花嫁となった女たちの運命は、果たしていかであっただろうか。


つづく


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