2022年12月23日金曜日

〈藤原定家の時代218〉元暦2/文治元(1185)年7月9日 文治地震(又は元暦地震) 『玉葉』 『方丈記』 『愚管抄』 『平家物語』巻12「大地震」 『吾妻鏡』

 


〈藤原定家の時代217〉元暦2/文治元(1185)年7月9日 文治地震(又は元暦地震) 京都に直下型大地震(M7.4と推定) 〈被害状況〉 より続く

元暦2/文治元(1185)年

7月9日 

文治地震(又は元暦地震)

〈『玉葉』〉

これを「源平の乱」による「業障」が、「天神地祇の瞋(いかり)」を招いたためと説明(元暦2年8月1日)。


〈『方丈記』〉

「又、同じころかとよ。おびたゝしく大地震(おほなゐ)ふること侍き。

そのさまよのつねならず。山はくづれて河を埋(うづ)み、海は傾(かたぶ)きて陸地(ろくじ)をひたせり。土さけて水わきいで、巌(いわほ)われて谷にまろびいる。なぎさ漕ぐ船は波にたゞよひ、道行(ゆ)く馬はあしの立ちどをまどはす。都のほとりには、在々所々(ざいざいしよしよ)、堂舎塔廟(だうしやたふめう)、一つとして全(また)からず。或はくづれ、或はたふれぬ。塵灰(ちりはひ)たちのぼりて、盛りなる煙の如し。地の動き、家のやぶるゝ音、雷(いかづち)にことならず。家の内にをれば、忽(たちまち)にひしげなんとす。走り出づれば、地割れ裂く。羽なければ、空をも飛ぶべからず。龍ならばや、雲にも乗らむ。恐れのなかに恐るべかりけるは、只地震(なゐ)なりけりとこそ覚え侍しか。

かくおびたゞしく振る事は、しばしにてやみにしかども、そのなごりしばしは絶えず。世の常驚くほどの地震(なゐ)、二三十度振らぬ日はなし。十日廿日過ぎにしかば、やうやう間遠(まどほ)になりて、或は四五度、二三度、もしは一日(ひとひ)まぜ、二三日に一度など、大かたそのなごり、三月ばかりや侍りけむ。

 四大種(しだいしゆ)の中に、水(すい)火(くわ)風(ふう)はつねに害をなせど、大地に至りては異(こと)なる變をなさず。むかし齊衡(さいかう)のころとか、大地震(おほなゐ)振りて、東大寺の佛の御頭(みぐし)落ちなど、いみじき事ども侍りけれど、なほこの度にはしかずとぞ。すなはちは、みなあぢきなき事を述べて、いさゝか心の濁(にご)りもうすらぐと見えしかど、月日重なり、年経(へ)にし後は、ことばにかけて言ひ出づる人だになし。

すべて世の中のありにくゝ、我が身と栖(すみか)との、はかなく、あだなるさま、またかくのごとし。いはむや、所により、身の程にしたがひつゝ、心をなやます事は、あげて計(かぞ)ふべからず。 」

・・・山は崩れて河を埋め、津波が起きて陸地を浸した。地面が裂けて水が沸き出し、岩が割れて谷に落ち込んだ。渚を漕ぐ船は波に漂い、道行く馬は脚元が定まらない。都の周辺では、いたるところで堂塔伽藍は一つとして完全なものはなかった。あるいは崩れ、あるいは倒れた。そこから塵灰が立ち上って、勢いの盛んな煙のようにみえた。地が動き、家が倒壊する音は、雷鳴のように聞こえた。家の中にいれば、たちまち押し潰されそうになる。走り出れば、地面が割れ裂けた。・・・


〈『愚管抄』〉

「元暦二年七月九日午時バカリナノメナラヌ大地震アリキ。古キ堂ノマロバヌナシ。所々ノツイガキクヅレヌナシ。少シモヨハキ家ノヤプレヌモナシ。山ノ根本中堂以下ユガマヌ所ナシ。事モナノメナラメ竜王動(りゆうわうどう)トゾ申シ。平相国竜ニ成テアリタルト世ニハ申キ。法勝寺九重塔ハアダニハタウレズ傾キテ。ヒエンハ重コトニ皆落ニケリ。」

これを相国清盛が竜になって引き起こしたものとし、〈竜王動〉と人びとが呼んだことを伝える。

〈『平家物語』巻12「大地震(だいぢしん)」〉

「十善帝王都を出させ給て、御身を海底にしづめ、大臣公卿大路をわたしてその頸を獄門にかけらる。昔より今に至るまで、怨霊はおそろしき事なれば、世もいかゞあらんずらむとて、心ある人の欺きかなしまぬはなかりけ。」

非業に死んだ平家一門の怨霊によるものという噂が巷に広がり、心ある人を歎かせた、という。

「平家みなほろびはてて、西國(さいこく)もしづまりぬ。國は國司にしたがひ、庄は領家(りやうけ)のまゝなり。上下安堵しておぼえし程に、同(おなじき)七月九日(ここのかのひ)の午刻(むまのこく)ばかりに、大地(だいぢ)おびたゝしくうごいて良(やゝ)久し。赤縣(せきけん)のうち、白河のほとり、六勝寺皆やぶれくづる。九重(くぢう)の塔もうへ六重(ろくぢう)ふりおとす。得長壽院(とくぢやうじゆゐん)も三十三間(げん)の御堂(みだう)を十七間(けん)までふりたうす。皇居をはじめて人々の家々、すべて在々所々の神社佛閣、あやしの民屋(みんをく)、さながらやぶれくづる。くづるゝ音はいかづちのごとく、あがる塵(ちり)は煙(けぶり)のごとし。天暗うして日の光も見えず。老少ともに魂(たましゐ)をけし、朝衆(てうしゆ)悉(ことごと)く心をつくす。又遠國近國(をんごくきんごく)もかくのごとし。大地(だいぢ)さけて水わきいで、磐石(ばんじやく)われて谷へまろぶ。山くづれて河をうづみ、海たゞよひて濱をひたす。汀(みぎは)こぐ船はなみにゆられ、陸(くが)ゆく駒は足のたてどをうしなへり。洪水みなぎり來(きた)らば、岳(をか)にのぼ(ツ)てもなどかたすからざらむ、猛火もえ來(きた)らば、河をへだててもしばしもさんぬべし。たゞかなしかりけるは大地震(だいぢしん)なり。鳥にあらざれば空をもかけりがたく、龍(れう)にあらざれば雲にも又のぼりがたし。白河・六波羅、京中(きやうぢう)にうちうづまれてしぬるものいくらといふかずをしらず。四大種(しだいしゆ)の中に水(すゐ)火(くわ)風(ふう)は常に害をなせども、大地(だいぢ)にをいてはことなる變を(ノ)なさず。こはいかにしつる事ぞやとて、上下(じやうげ)遣戸(やりど)障子(しやうじ)をたて、天のなり地のうごくたびごとには、只今ぞしぬるとて、こゑごゑに念佛申(まうし)おめきさけぶ事おびたゝし。七八十・九十(くじふ)の者も世の滅するな(ン)どいふ事は、さすがけふあすとはおもはずとて、大(おほき)に驚(おどろき)さはぎければ、おさなきもの共も是(これ)をきいて、泣(なき)かなしむ事限りなし。法皇はそのおりしも新熊野(いまぐまの)へ御幸(ごかう)な(ツ)て、人多くうちころされ、觸穢(しよくゑ)いできにければ、いそぎ六波羅殿へ還御(くわんぎよ)なる。道すがら君も臣もいかばかり御心(みこゝろ )をくだかせ給ひけん。主上(しゆしやう)は鳳輦(ほうれん)にめして池の汀(みぎは)へ行幸(ぎやうがう)なる。法皇は南庭にあく屋をたててぞましましける。女院(にようゐん)・宮々は御所共(ごしよども)皆ふりたおしければ、或(あるは)御輿(おんこし)にめし、或(あるは)御車(おんくるま)にめして出(いで)させ給ふ。天文博士(はかせ)ども馳(はせ)まい(ツ)て、「よさりの亥(ゐ)子(ね)の刻にはかならず大地(だいぢ)うち返すべし」と申せば、おそろしな(ン)どもをろかなり。
 昔文德(もんどく)天皇の御宇(ぎよう)、齊衡(さいかう)三年三月八日(やうかのひ)の大地震(だいぢしん)には、東大寺の佛の御(み)くしをふりおとしたりけるとかや。又天慶(てんぎやう)二年四月(しんぐわつ)五日(いつかのひ)の大地震には、主上(しゆしやう)御殿をさ(ツ)て常寧殿(じやうねいでん)の前に五丈のあく屋をたててましましけるとぞうけ給はる。其(それ)は上代の事なれば申(まうす)にをよばず。今度(こんど)の事は是(これ)より後(のち)もたぐひあるべしともおぼえず。十善帝王(じうぜんていわう)都を出(いで)させ給(たまひ)て、御身を海底にしづめ、大臣公卿大路(おほち)をわたしてその頸(くび)を獄門にかけらる。昔より今に至るまで、怨靈(をんりやう)はおそろしき事なれば、世もいかゞあらんずらむとて、心ある人の歎(なげき)かなしまぬはなかりけり。

・・・安徳天皇が都を退去され、身を海底に沈められ、大臣や公卿は虜囚となって京に帰ったり、打ち首となって市中引き回しとなったりした。また、妻子と別れさせられ流罪となった。平家の怨霊によってこの世が滅亡するのではないかと噂され、思慮・分別がある人はみな嘆き悲しまなかった人はいないという。

〈『吾妻鏡』〉

「元暦二年七月小十九日庚子。地震良(やや)久し。京都、去る九日午剋大地震。得長壽院、蓮華王院、最勝光院以下の佛閣、或は顛倒し、或は破損す。又、閑院御殿は棟が折れ、釜殿(かなえどの)以下の屋々少々顛倒す。占文(うらぶみ)之推す所、其の愼み輕不と云々。而るに源廷尉が六條室町亭は、門垣と云ひ家屋と云ひ、聊も頽れ傾くこと無しと云々。不思議と謂つ可き歟。」
元暦2年(1185年)7月小19日庚子。地震が少し長い間ありませんでしたが、京都では先日の9日昼頃に大地震がありました。後白河法皇の居所となっている法住寺内の得長壽院、蓮華王院三十三間堂、最勝光院をはじめ仏閣が転倒、または損壊したりしました。また、同じ法住寺内の後白河院の居所は棟梁が折れて、厨房棟などの建物が多少倒壊しました。占いの結果によると、為政者が過ちがないように気を配ることが重要とのことだ。それにもかかわらず、源義経の六条室町の屋敷では、門も築地塀も家屋も、少しも傾くこともなかったとのことだ。世間では不思議な話だと言っておりました。

『山槐記』によれば閑院の皇居が破損、近江湖(琵琶湖)の湖水が北流して湖岸が干上がり後日旧に復し、宇治橋が落下して渡っていた十余人が川に落ちて1人が溺死、また民家の倒壊が多く、門や築垣は東西面のものが特に倒壊し、南北面のものは頗る残ったという。法勝寺九重塔は倒壊には至らなかったものの、「垂木以上皆地に落ち、毎層柱扉連子相残らる」(『山槐記』)という大破状況であった。同書はその後の余震が続いたことを詳細に記録し、さらに、琵琶湖でも一時的に水位が下がったことなどを記す。(Wikipediaより)


つづく



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