元暦2/文治元(1185)年
4月28日
・「今日、近江の国住人前の出羽の守重遠参上す。これ累代の御家人なり。齢八旬と。武衛その志を哀れみ御前に召す。舎弟十郎並びに僧蓮仁等扶持を加う。重遠申して云く、・・・適々御執権の秋に逢い、愁眉を開くべきの処、還って在京の東士等が為、兵粮と称し番役と号し譴責の條、太だ以て堪え難し。凡そ一身の訴えに非ず諸人の愁えに及ぶ。平氏の時曽てこの儀無し。世上未だ収まらざるかと。申し状の趣、尤も正理に叶うの由御感有り。仍って然る如きの濫妨を停止し、安堵の思いを成さしむべきの旨、直に恩裁有りと。また国中訴訟の事、御沙汰有るべきの由と。」(「吾妻鏡」同日条)。
4月29日
・頼朝、使者を派遣して、義経の近くにいる御家人衆田代信綱に、忠をなす輩は義経の指示に従わないよう内々に触れるよう伝える。義経には「自専(じせん)の儀」(自分勝手な成敗)が多く、侍らを私に服仕させ、面々が恨みに思っているため。義経勢力の切崩し始まる。(同様を5月4日景時に、5月5日範頼に伝える)。
「雑色吉枝御使として西海に赴く。これ御書を田代の冠者信綱に遣わさるる所なり。廷尉は、関東の御使として御家人を相副え、西国に差し遣わさるるの処、偏に自専の儀を存じ、侍等を以て私に服仕の思いを成すの間、面々に恨み有りと。[所詮向後に於いては]、志を関東に存すの輩は、廷尉に随うべからざるの由、内々相触るべしと。」(「吾妻鏡」同日条)。
5月1日
・伊勢の謀反人忠清法師、姉小路河原の辺で梟首(「吉記」5月14日)。
5月1日
・建礼門院、落飾。
5月1日
・義仲の妹(字は菊)、京より鎌倉に参着(「吾妻鏡」)。政子は頼朝に口添えをし、「雑怠(ぞうたい)ナキノ女性」の立場を擁護し、美濃国の遠山荘を与える。
「故伊豫の守義仲朝臣の妹公(字菊)京都より参上す。これ武衛招引せしめ給うが故なり。御台所殊に愍み給う。先日所々押領の由の事、奸曲の族名を仮り面に立つの條、全く子細を知らざるの旨陳謝すと。豫州は朝敵として、討罰に預かると雖も、指せる雑怠無きの女性、盍ぞこれを憐まざらんかと。仍って美濃の国遠山庄の内一村を賜う所なり。」(「吾妻鏡」同日条)。
「木曽の妹公の事、御扶持を加えらるる所なり。憐み奉るべきの趣、小諸の太郎光兼以下信濃の国の御家人等に仰せ付けらると。これ信州は、木曽分国を号す如く、住人皆彼の恩顧を蒙るが故なりと。」(「吾妻鏡」同3日条)。
5月3日
・「今日午の刻、頭の弁光雅朝臣、院の御使として来たり。二ヶ條の事を問う。 一 時忠卿申して云く、賊に伴い西海に赴くの條、遁れ難きの過怠たりと雖も、神鏡の安全に於いては、時忠の殊功なり。縦え重科有るとも、この功に依り流刑を免ぜられ、京都に安堵せんと欲す。則ち剃首染衣して、深山に隠居すべきなりてえり。申し状此の如し。寛宥有るべきや否や。宜しく計奏すべしてえり。 申して云く、左右偏に勅定に在り。是非を計奏するに能わず。・・・」(「玉葉」同日条)。
5月4日
・頼朝、鎮西に戻る景時の使者に対し、義経に「勘発(かんぱつ)」(おちどを攻める)を加えたので、以降は義経に従わないよう命じる。
「梶原平三景時の使者鎮西に還ると。仍って御書を付けられ、廷尉を勘発せられをはんぬ。今に於いては彼の下知に従うべからず。但し平氏の生虜等すでに入洛すと。これ当時重事なり。罪名治定の程は、景時已下御家人等、皆心を一つにして守護せしむべし。各々意に任せ帰参せしむべからざるの由と。」(「吾妻鏡」同3日条)。
5月5日
・頼朝、範頼に宝剣捜索を命じるとともに、冬頃までは九州にいるように指示。同時に、範頼配下の御家人に対し、たとえ「所存」に背く者がいたとしても、私的に勘発を加えず、関東に訴えるべきことを指示し、さらに、本来は四国の管轄である義経が、壇ノ浦合戦後は、範頼の管轄である九州の事をも沙汰し、御家人達の些細な過失も見逃すことなく、また、詳細を頼朝に報告せず、「雅意(がい)」(自分の勝手な考え)に任せて私的に勘発を加えていると聞く。これは諸人の憂いであると同時に、許し難いことである。そこで、義経に譴責を加えたことを知らせる。
「宝劔を尋ね奉るべきの由、雑色を以て飛脚と為し、参州に下知し給う。凡そ冬の比に至るまで九州に住し、諸事沙汰し鎮めらるべしてえり。・・・また参州に付け置かるる所の御家人等の事、縦え所存に乖く者相交ると雖も、私に勘発を加うべからず。関東に訴え申すべきの由と。・・・今度廷尉壇浦合戦を遂げるの後、九国の事悉く以てこれを奪い沙汰す。相従う所の東士の事、小過たると雖も、これを免すに及ばず。また子細を武衛に申さず。ただ雅意に任せ、多く私の勘発を加うの由その聞こえ有り。縡すでに諸人の愁いたり。科また宥められ難し。仍って廷尉御気色を蒙ること先にをはんぬと。」(「吾妻鏡」同日条)。
5月6日
・「公家追討報賽の為、二十二社の奉幣使を発遣せらる。上卿右大将良経、奉行弁兼忠朝臣と。」(「吾妻鏡」同日条)。
5月6日
・義経、平宗盛の懇願に応じて六条室町第にて2男能宗(6)と対面させる(「平家物語」巻12)。7日、義経、能宗を預かる河越小太郎(平重房)に命じ能宗を斬首。
寿永2年(1183)7月、能宗(4歳)は、乳母・冷泉局、女房・少納言局につき添われ、父・宗盛や兄・清宗と共に西海へ赴く。壇ノ浦で生捕りにされ、文治元年(1185)4月に入洛し、河越小太郎の洛中における宿所に預けられた。河越小太郎は、頼朝の乳母子を母とし、姉妹は義経の妻となっていた。河越小太郎は、一ノ谷で但馬守・・平経正(畑)を討ち取ったことで名が知られている。
文治元年(1185)5月6日、宗盛らが鎌倉に護送される前日、義経は宗盛の懇願に応えて、能宗を宗盛の許(六條・室町の義経の邸)に遺し、親子を対面させた。翌暁、河越小太郎は義経の指示により、能宗とその乳母、女房(少納言局)を連れ出し、六條河原で能宗の首を刎ねる。
乳母・冷泉局と女房・少納言局は、義経に請うて能宗を貰い受け、数日後、乳母はその首を懐に入れ、女房は遺骸を抱いて桂川に投身したと言う。
しかし延慶本『平家物語』は、能宗は桂川で柴漬(ふしづけ)にして殺されたこと、付添いの女房2人は、出家して南都の法華寺に入り、能宗の後生菩提を弔ったとしている。柴漬は、身柄を簀巻きにしたり、石籠に入れたりして水中に投じ、血を流さずに殺す方法であって、幼い者を殺すのにはしばしは用いられた。伊東祐親が娘の千鶴と頼朝との間に生まれた3歳の男の子を殺すにも、この方法を用いた。
5月7日
・義経、異心なき旨を記した起請文を亀井六郎に託して鎌倉の大江広元に送る。頼朝、こちらが不快に思っていると聞いて初めてこうした釈明をするのは許せないと語る。
同日、義経、左馬頭一条能保(頼朝の妹婿)とその家族を伴い、平宗盛・清宗父子・平盛国ら平氏捕虜10余を連れ京より鎌倉へ向かう。義経には伊勢三郎能盛、能保には左兵衛尉後藤基清が従う。
「源廷尉の使者(亀井の六郎と号す)京都より参着す。異心を存ぜざるの由、起請文を献らるる所なり。因幡の前司廣元申次を為す。而るに三州は、西海より連々飛脚を進し子細を申す。事に於いて自由の張行無きの間、武衛また懇志を通せらる。廷尉は、ややもすれば自専の計有り。今御気色不快の由を伝え聞き、始めてこの儀に及ぶの間、御許容の限りに非ず。還って御忿怒の基たりと。」(「吾妻鏡」同日条)。
「早旦、大夫判官義経前の内府(張藍摺の輿に乗る)並びに前の右衛門の督清宗(騎馬)、及び生虜の輩を相具し関東に下向す。左馬の頭能保朝臣同じく下向すと。」(「吉記」同日条)。
つづく
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