2022年12月9日金曜日

〈藤原定家の時代204〉元暦2/文治元(1185)年3月24日 壇ノ浦合戦(7) 〈対馬宗家知盛末裔説〉

 


〈藤原定家の時代204〉元暦2/文治元(1185)年3月24日 壇ノ浦合戦(7)

〈宗家知盛末裔説〉

鎌倉時代いらい永く対馬を支配し、明治に至って伯爵を授けられた宗家は、権中納言平知盛の末裔と伝えられている。

一方、対馬では、宗家の祖、惟宗知宗は、壇ノ浦からのがれた安徳天皇であると言う宗家皇胤説があった。明治初年、国分六之助他がこれを提唱し、旧対馬藩主宗重正(1847-1902)がこれを政治的に政府に働きかけた。こうした運動の結果、明治16年、厳原(いずはら)町久根田舎(くねいなか)字コウヤにある古墳が安徳天皇の御陵墓伝説地に指定された。

いかし、安徳天皇の対馬への潜幸伝説は、全く史料批判に堪えぬもので今さら論破の労をとる必要もないものである。これに対して、古くからの宗家知盛末裔説の方は、歴史学の常識をもって安易に否定し難いものを含んでいる。

知盛末裔説に関して最も古い史料は、文明9年(1477)の紀年を有するものである。これには、知盛が入水した時、彼には襁褓の嬰児があった。乳母がこの児を抱いて戦場から山中に逃れた。その後、太宰君(武藤家の資頼)が鎮西奉行として太宰府に赴く途上、この児を見、自分の子となしてこれを鞠育(きくいく)した。成長後、の子は太宰府の兵馬の権を握り、三州二島の主となったと述べられている。

現存する宗家の家譜、『宗氏家家譜略』によると、宗家の始祖の知宗は、元暦元年(1184)に出生した平知盛の末子で、母は、宗判官こと惟宗信房の娘であった。知宗は中頃、武藤右馬助または惟宗判官、武藤判官などと称したが、「惟宗」は彼の乳母の氏名(うじのな)であったとのこと。

文治元年(1185)3月の壇ノ浦合戦の時、知宗はまだ2歳の嬰児で、老臣の斎藤兵庫こと藤原某と乳母の惟宗某女は、知宗の存在をひた隠しにしていた。その後、太宰少武兼筑前守の武藤次郎こと藤原資頼は、知宗を養子に迎え、知宗は武藤判官と称した。その所領は、豊前、筑前、肥前の三国に散在していたが、彼自身は太宰府に居住していた。

正治2年(1200)、17歳の時、知宗は太宰大監に任官し、九州二島の総兵馬を統括し、武者所と称した。大監の唐名は判官であるため、知宗はまた太宰判官とも呼ばれた。建長7年(1255)7月5日、知宗は72歳をもって太宰府の北殿で没した。

知宗は薩摩国の島津家から正妻を迎え、息子だけでも7人にめぐまれた。彼の後継は、正妻腹の長子・重尚(しげひさ)であった。

寛元3年(1245)、対馬の在庁官人・阿比留平太郎国信が太宰府の命令を拒否する事件が起こった。阿比留家は、同島古来の名族・対馬直氏(つしまのあたい)の後裔と推定される名族で、その勢威は全島に及んでいた。太宰府は知宗に対馬討伐を命じたので、重尚は老齢の父親に代り、府兵を率いて対馬に向かい、翌4年正月、阿比留国信らを破って叛乱を平定した。この時、知宗一家は殆どすべて対馬に征討に行ったが、知宗は功によって対馬の地頭に補された。

宝治2年(1248)、知宗は家督を一男の重尚に譲った。重尚とその兄弟はそのまま対馬に居住し、これを本拠とするに至った。重尚は、外祖母の氏名「惟宗」に因んで家名を「宗」と称した。重尚は、病身であって嗣子がなかったので、同母の末弟で筑前国に残っていた助国を養子とし、家督を譲って、弘長元年(1261)7月1日に没した。

以上が、『家譜略』の概略であるが、一の谷の合戦以降、知盛の妻の治部卿局(じぶのきようのつぼね)は皇子・守貞の乳母として一門主力と共に屋島におり、知盛は単身で軍の指揮に当たっていた。この際、知盛が側近に仕える女房(宗判官こと惟宗信房の娘)を寵愛し、知宗が生まれたと伝えられている。この判官の惟宗朝臣信房は、検非違使左衛門尉に在任した後白河の近習で、衛門尉である関係から(惟)宗判官と呼ばれていた。

彦島の平氏の拠点根緒城は、壇ノ浦合戦の文治元年(1185)3月24日夕方か翌日には陥落したと推測できる。この時、知宗の乳母の惟宗某女(おそらく知宗の母の姉妹)は、老臣斎藤兵庫こと藤原某の指示に従い、知宗を抱いて九州に落ちのびたと推測できる。

以上、角田文衛『平家後抄』より


つづく


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