2022年12月27日火曜日

〈藤原定家の時代222〉元暦2/文治元(1185)年9月1日~9月26日 頼朝、義経の形勢を窺うために梶原影季を上洛させる 平時忠配流 「昨日は西海の波の上にたゞよひて、怨憎会苦の恨みを扁舟の中に積み、今日は北国の雪の下に埋もれて、愛別離苦の悲しみを、故郷の雲に重ねたり。」(『平家物語』) 範頼入洛    

〈藤原定家の時代221〉元暦2/文治元(1185)年8月4日~8月31日 頼朝、佐々木定綱に対し行家追討を命じる(頼朝の挑発) 「文治」改元 頼朝、関東六分国に源氏から国司を任命 義経は検非違使兼任で伊予守に 東大寺大仏の開眼供養 より続く

元暦2/文治元(1185)年

9月1日

・頼朝、勅使大江公朝と面談。前日、源義朝の遺骨を届けに鎌倉到着。

9月2日

・頼朝、勝長寿院供養の導師の布施などの調達のため梶原景季・義勝房成尋を使節として上洛させる。景季には、義経亭に赴き、行家の在所を調べ誅戮するよう触れ、義経の「形勢」を窺うよう命じる。また、流人時忠・時実父子の速やかな配流を朝廷に言上させる。

「梶原源太左衛門の尉景季・義勝房成尋等、使節として上洛するなり。南御堂供養導師の御布施並びに堂の荘厳具(大略すでに京都に調え置く)奉行せんが為なり。また平家縁坐の輩未だ配所に赴かざる事、若しくは居ながら勅免を蒙る事、子細に及ばず、遂にまた下し遣わされべくんば、早く御沙汰有るべきかの由これを申さる。次いで御使と称し、伊豫の守義経の亭に行き向かい、備前の前司行家の在所を尋ね窺い、その身を誅戮すべきの由を相触れて、彼の形勢を見るべきの旨、景季に仰せ含めらると。去る五月二十日、前の大納言時忠卿以下、配流の官符を下されをはんぬ。而るに(時忠父子が)今に在京の間、二品(頼朝)鬱憤し給ふの処、予州(義経)、件の亜相(時忠)の聟として、其の好を思ふにより、これを抑留す」(「吾妻鏡」同日条)。

9月3日

・源義朝の遺骨、南御堂(のち勝長寿院と号す)の敷地内に葬られる(「吾妻鏡」同日条)。

9月4日

・勅使大江公朝、頼朝からの伝言(先の大地震について、徳政と崇徳院の鎮魂に尽力すべし)を携えて京に戻る(「吾妻鏡」同日条)。

9月4日

・緒方惟栄、7月頃、宇佐八幡焼討ち(前年1184年7月6日)により流罪となるが、平家滅亡の功績(1183年8月大宰府での平家追放、この年初めの兵船提供)が認められ、東大寺大仏供養の機会に恩赦(「吾妻鏡」10月16日条)。義経が、惟栄を味方に引き入れる為、刑部卿豊後国司代頼経・大蔵卿高階泰経と赦免工作。

9月5日

・威光寺の寺領をめぐる争いは、4月1日の公文所裁定によっても収まらなかったようで、この日、再び小山有高の押領を停止する旨の頼朝の裁定が下され、藤原邦通らがこれを奉行し、大江広元・二階堂行政・大中臣秋家・足立遠元らが連署した文書が発給される。

「小山の太郎有高威光寺領を押妨するの由、寺僧解状を捧ぐ。仍ってその妨げを停止せしめ、例に任せ寺用に経すべし。もし由緒有らば、政所に参上せしめ、子細を言上すべきの旨仰せ下さる。」(「吾妻鏡」同日条)。

8月7日

・源範頼、「長門国在廰官人等」に下文「早く豊西郡内吉永別府四至内荒熟田畠参拾町を以て一宮御領として御祈祷を致すべき事」を下す。

8月12日

・梶原景季、入京。この日以後、義経と対面。義経、病中のため行家追討のことは平癒後に計をめぐらすと返事。

8月18日

・頼朝、吉田経房を中納言に推挙。

「新藤中納言経房卿は廉直の貞臣なり。仍って二品常に子細を通せしめ給う。今に於いては、吉凶互いに示し合わさる。而るに黄門望み有るの由内々申さるるの間、二品これを吹挙せしめ給うと。」(「吾妻鏡」同日条)。

8月18日

「東国の領等、領家の進士に随うべきの由、院より御教書を頼朝の許に遣わす。泰経卿の奉書下し給う所なり。 」(「玉葉」同日条)。

8月19日

・九条兼実の家司の藤原光長、頼朝に東国領安堵を願う。25日、頼朝より安堵の下文が送られる。この頃、九条兼実は頼朝推挙で摂関就任を謀り、頼朝との連絡は緊密。

8月21日

「参河の守(範頼)の使者参着す。すでに鎮西を出て途中に在り。今月相構えて入洛すべし。八月中参洛すべきの由厳命を蒙ると雖も、風波の難に依って遅留す。恐れ思うと。この使い京都より先立の旨これを申す。而るに今の申し状、御命を重んぜらるるの條掲焉たるの由、感じ仰せらる。」(「吾妻鏡」同日条)。

8月23日

・平時忠、この日、建礼門院の許に参上し、配流先の能登へ出発。家族の随伴は認められず、僕従2~3人のみが従う。西近江路を進み、この日、阿宇岐(大津市仰木町)泊り。時忠の配所は能登最北の郡珠洲郡。3年後、文治5年(1189)2月24日配所で没。62歳。

「昨日は西海の波の上にたゞよひて、怨憎会苦(おんぞうえき)の恨みを扁舟(へんしゆう)の中(うち)に積み、今日は北国の雪の下に埋もれて、愛別離苦の悲しみを、故郷の雲に重ねたり。」(『平家物語』巻12「平大納言の流されの事」)

長子時実は、周防国配流の刑を受けていたが、義経の参謀格として都に残る。11月、義経と共に都を退去、一行は離散。時実は都に戻り潜伏中に捕縛、鎌倉に送られた後、都に戻され、上総へ配流となる。

ニ男時家は、これより先治承3年11月、父時忠の後妻頌(むね)子(帥典侍そちのすけ)の讒訴により解官、上総に流され、上総権介平広常に迎えられ、後、鎌倉で頼朝側近となり、鎌倉で没。

後妻の藤原頌(むね)子は、権中納言藤原顕時の娘。初め女御(のち建春門院)平滋子の女房り、ついで中宮・徳子の女房、治承2年11月、皇子言仁(安徳天皇)の乳母に採用され、候名を帥(そち)と改め、治承4年(1180)3月、典侍に任じられ(帥典侍そちのすけ)、恐らく従三位まで進んだものと想定される。

壇ノ浦から帰洛した後の領子の動静はよく分からない。時忠が配地へ去ると、彼らの邸宅の東洞院第は没収され、平家没官領の一つとして頼朝に処分が委ねられた。しかし頼朝は、頼りにしていた権中納言・藤原経房の意向を忖度したと見え、この邸宅をそのまま時忠め家族を居住させていた。ところが建久六年(1195)3月に上洛した時、頼朝はこの邸宅を六條若宮に近くて便利だと言うので、若宮の供僧らの宿坊に宛てた。そこで領子や娘の帥典侍尼は、早速、頼朝に愁状を呈することとし、これを携えた使者は7月18日の夕、鎌倉に到着した。頼朝は法皇や経房への思惑もあったと見え、愁状の趣旨を容れ、収公をさし止め、もとの通り時忠の遺族に領掌させた。

「平家物語」作者とされる下野守藤原行長は頌子の甥であり、行長は世紀の悲劇の目撃者であるこの叔母から平家の盛衰を取材している。

〈時国家と則貞家〉

伝えによれば時忠は配所で時国・時康の二子をもうけ、その子孫が後に町野(まちの)に移った時国家であり、この大谷村に残った則貞(のりさだ)家だという。しかし、3年間で2人の子が生まれるかとの疑問もあり、これは、時忠に従った侍や郎従らの子孫と見るほうがよいのかもしれない。

時国家は、ある時期町野川流域に移りそこの豪農となった。日本常民文化研究所の調査・刊行になる『奥能登時国家文書』所収文書(上時国家)によれば、いちばん古いのが天文10年(1541)12月24日の日付で山崎弥太郎なるものが、時国衛門太郎に千代という名の11歳の少女を800文で売渡した人身売買の文書である。衛門太郎の肩に「下町野領家万ヒツメ」と書かれているから、この時代にはすでに町野に住んでいたと推測できる。天正3年(1575)6月13日の小刀禰(ことね)兵衛太郎らの時国四郎三郎あて一札(誓約書)は、舟の梶を盗んで売ったかどで殺されるべきところを助けられたうえは、被官とおぼしめして御用仰付けられれば緩怠(かんたい)なく馳走(奉仕)いたしますと誓ったものであるが、四郎三郎が曽々木浦に舟やよろずの道具をおいていたとあるから、時国家は曽々木海岸を拠点に海運にも当っていたのであろう。それを「時国船」といっていた。また百姓が山の木を切って時国家に謝罪した文書もあるから、山持ちでもあった。また、元和2年(1616)12月23日付、寺地村九郎左衛門の一札や元和5年2月朔日付、久次一札では、前者は1俵4合を借用したものであるが、その宛名が「時国おかゝ様」、後者はエゾの松前に行って仕入れた昆布や干魚をかすめとったことを謝罪したものであるが、これには時国藤左衛門を「おやぢさま」と呼んでいる。時国家の当主が人々からおやじさま・おかかさまと呼ばれているところに時国家の地位が示されている。

時国家が上、下の二家に分れたのは江戸初期のことで、下時国家は、分立時分の長男が早世したため二男が跡を継ぎ、父が長男の子をつれて分家隠居したのに始まると考えられ、下家の領地は庵室(隠居)分であった。本家は、天領に属して庄屋、分家は加賀藩領に属して塩吟味役等をつとめた。

8月26日

・範頼、九州から京都に戻る(「玉葉」同日条)。


つづく



 

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