元暦2/文治元(1185)年3月24日 壇ノ浦合戦(2)
〈平氏の敗因〉
壇ノ浦合戦の様相については、黒板勝美が、大正3年(1914)に出した『義経伝』という義経の伝記で、平氏の敗因を潮流の変化に求める説がある。黒板が、元暦2年陰暦3月24日の関門海峡の潮流が、午後3時頃に東流から西流に変化すると指摘して以来、合戦の勝敗と潮流の因果関係が論じられてきた。最近では、より精密な潮流の推定値に基づいて、戦闘が行われた12時から16時頃は、潮流が最も静まっている時間帯であったとする見解も提起されている。
壇ノ浦合戦の勝敗を決定づけたのは、屋島合戦からの戦局の展開のなかで、『平家物語』に阿波民部大夫成良の「返り忠」(寝返り)が描かれているように、四国・九州の在地武士が平氏軍を離れ、鎌倉方に味方したことが最大の要因であったとする説が有力である。壇ノ浦における平氏軍の主力は、筑前国の山鹿秀遠(ひでとお)や肥前国の松浦党など、一部の平氏家人に限定されてしまっていた。
しかし、寝返った成良は戦後「生けどり」「生虜」「生取」(それぞれ『平家物語』『吾妻鏡』『醍醐雑事記』)になったとされている。壇ノ浦で源氏の勝因を作ったのであれば、鎌倉に連行後には解放されるなり、賞も与えられるだろうが、延慶本によれば、鎌倉での成良の評判は悪く、籠に入れられて焙り殺しにされたという。更に、子の範良(則良)は建久8年(1197)10月に三浦浜で斬首(『鎌倉大日記』)されている。また、『東大寺造立供養記』に、東大寺別所の浄土堂は、もの阿波民部重能(成良)が阿波に建立しものだったが、「乱逆の徒」であるから、源平合戦後「誅戮」され、東大寺を焼いた平家の「罪根」を救うため、九体の丈六仏(じようろくぶつ)とともに東大寺に移されたとある。成良は、積極的な裏切りではなく、捕虜となって、処刑されたという理解が成り立つ。
平氏の敗因は詰まるところ、戦力、戦闘力、戦意の高さによるものだろう。平氏の軍船の数は義経の軍船に比べて劣勢であった。更に陸からは範頼軍の支援もあった。平氏は、山陽道、四国、九州を失い、彦島周辺の海域に追い込まれている訳で、兵士たちの士気はそれ程高くはなかったと推測できる。敗色濃厚となってからは、譜代の郎党、侍大将クラスでさえ戦場から離れている。
一方、義経にとっての壇ノ浦は残敵掃蕩に近い感覚で、平氏の首脳としてはそいう状況下でよく戦って部門の意地を見せたいという位置づけだったと思われる。
延慶本にあるように、豊後の緒方惟栄が、平氏一門が中国(宋)に逃走しないように兵船を配置して航路を遮断していたのなら、義経にとっては勝利を前提とした余裕の対処だったといえる。
この戦闘において、平知盛・経盛・敦盛、有盛(重盛子息)・行盛(基盛子息)・教経(教盛子息)が討死あるいは自害し、宗盛・清宗父子や平時忠・晴実父子、前内蔵頭平信基・前兵部権少輔藤原尹明・二位僧都全真・法勝寺執行能円・権律師忠快ら、平氏都落ちに同行した人々が生け捕りとなった。また建礼門院徳子や故高倉上皇の第二皇子守貞(安徳の異母弟、のちの後高倉院)らは無事に保護されたが、清盛の後家時子と八歳の安徳天皇は入水自殺し、三種の神器の一つである宝剣が海底に沈んだ。
〈東アジアのなかの源平合戦〉
壇ノ浦合戦において平氏軍の兵船には「唐船少々あひまじれり」(『平家物語』巻11「鶏合壇浦合戦」)と、宋船が交じっていたという。かつて清盛が宋人の船に高倉上皇らを乗せて難波江を遊覧させたことなどを想起すると、都落ち以後の平氏軍本隊の動向は、日本と大陸を往来する人々との交流とネットワークのなかで考えてみる必要がある。
延慶本『平家物語』には、「緒方三郎惟栄ハ九国ノ者共駈具テ、数千艘ノ船ヲ浮テ、唐地ヲゾ塞ギケル」(第六本「平家長門国壇浦々ニ付事)とあり、鎌倉方についた豊後国の緒方惟栄が、壇ノ浦合戦に際して平氏一門が宋に逃走しないように、兵船を配置して大陸に向かう航路を遮断していたと伝えている。
さらに『吾妻鏡』によれば、都落ちした平氏軍はたびたび対馬に原田種直の郎等などを送り、対馬守藤原親光を追い出して国務を掌握したという。平氏による対馬占拠がどのような意図に基づいていたのか。東アジア世界のなかで治承・寿永の内乱の展開を検討することは、今後の重要な課題である。
つづく
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