2022年12月28日水曜日

〈藤原定家の時代223〉元暦2/文治元(1185)年10月1日~10月14日 建礼門院徳子、寂光院に入る 梶原景季、鎌倉に帰り、義経の状況を報告 頼朝、義経を誅すべき事を謀る 土佐坊昌俊を義経暗殺の刺客として京へ派遣が決まる 「義経・行家同心し鎌倉に反く。日来内議有り。昨今すでに露顕すと」(『玉葉』)    

 


〈藤原定家の時代222〉元暦2/文治元(1185)年9月1日~9月26日 頼朝、義経の形勢を窺うために梶原影季を上洛させる 平時忠配流 「昨日は西海の波の上にたゞよひて、怨憎会苦の恨みを扁舟の中に積み、今日は北国の雪の下に埋もれて、愛別離苦の悲しみを、故郷の雲に重ねたり。」(『平家物語』) 範頼入洛 より続く

元暦2/文治元(1185)年

10月初め

・建礼門院徳子、寂光院に入る。晩秋(延慶本「平家物語」)、10月初め(長門本「平家物語」巻20)。

長門本「平家物語」巻20によれば、

①7月9日の大地震により野河御所が大破、

②異母兄宗盛・清宗父子処刑を聞き、悲しみの余り深山の奥に幽閉したいと思う、

③侍る女房のゆかりの寂光院を勧められ、そこの移る決心をする、

④参議右衛門藤原隆房の妻(女院の妹)が移動の世話をする(輿や女房車)。

阿波内侍の父の故藤原貞憲が大原に持っていた坊を女院に勧めた(角田文衛説)。

文治2年秋、かつて女院に仕えた右京大夫が訪れたが、昔にかわる質素さに涙している。女院の毎日は、安徳天皇の乳母であった大納言典侍局こと重衝の北の方や、信西の女の阿波内侍ら3、4人の女房が世話をしたといい、後に右京大夫も奉仕したという。ときには女院の姉妹である冷泉大納言隆房、七条修理大夫信隆の妻2人も訪れ、経済的な援助もしたことと思われる。また、文治3年、頼朝から庄園二ヵ所を与えられ、不如意をきたすことはなかったと思われる。

10月4日

・「豊後の国住人臼杵の二郎惟隆・緒方の三郎惟栄等、去年合戦の間、宇佐宮の宝殿を破却し神宝を押し取る。これに依って配流の官符を下さると雖も、去る四日非常の赦に逢うと。」(「吾妻鏡」同16日条)。

10月6日

・梶原景季、鎌倉に帰り、義経の状況を報告。頼朝、義経を誅すべき事を謀る。

義経亭に「御使」として面会を申し入れたが、「違例」(病気)として拒否され、一両日して再度赴き面会した。憔悴の様子、行家追討の話を持ち出すと、行家は普通の人ではないので、家人を派遣しても降伏は難しい、早く病気を治して計略を巡らせたいので、これを伝えてくれとのことと報告。頼朝は、義経が行家に同意して虚病を称しているのは明かで、これで謀反は露見したと云う。景季も仮病に同意する。

「一両日を相隔てまた参らしむの時、脇足に懸かりながら相逢われる。その躰誠に以て憔悴、灸数箇所に有り。而るに試みに行家追討の事を達するの処、報ぜられて云く、所労更に偽らず。義経の思う所は、縦え強竊の如き犯人たりと雖も、直にこれを糺し行わんと欲す。況や行家が事に於いてをや。彼は他家に非ず。同じく六孫王の余苗として弓馬を掌り、直なる人に准え難し。家人等ばかりを遣わしては、輙くこれを降伏し難し。然かれば早く療治を加え平癒の後、計を廻らすべきの趣披露すべきの由と。てえれば、二品仰せて曰く、行家に同意するの間、虚病を構うの條、すでに以て露顕すと。景時これを承り、申して云く、初日参るの時面拝を遂げず。一両日を隔てるの後見参有り。これを以て事情を案ずるに、一日食さず一夜眠らずんば、その身必ず悴ゆ。灸は何箇所と雖も、一瞬の程にこれを加うべし。況や日数を歴るに於いてをや。然れば一両日中、然る如きの事を相構えらるるか。同心の用意これ有らんか。御疑胎に及ぶべからずと。」(「吾妻鏡」同日条)。

10月9日

・頼朝、義経追討を議し、義経暗殺のため土佐坊昌俊を刺客として京へ派遣が決まる。多くの御家人が事態するなか、昌俊のみが諒承し、頼朝は要望に応じて下野の中泉庄(栃木市)を与える。

頼朝は、「行程九箇日たるべき」と厳命(最速であれば3日の行程)。頼朝側に刺客派遣を察知されるのを前提とする、挑発目的にある(仕掛けられた罠)。

「伊豫の守義経を誅すべきの事、日来群議を凝らさる。而るに今土佐房昌俊を遣わさる。この追討の事、人々多く以て辞退の気有るの処、昌俊進んで領状を申すの間、殊に御感の仰せを蒙る。すでに進発の期に及び、御前に参り、老母並びに嬰児等下野の国に在り。憐愍を加えしめ御うべきの由これを申す。二品殊に諾し仰せらる。仍って下野の国中泉庄を賜うと。昌俊八十三騎の軍勢を相具す。三上の彌六家季(昌俊弟)、錦織の三郎・門眞の太郎・藍澤の二郎以下と。行程九箇日たるべきの由定めらると。」(「吾妻鏡」同日条)。

10月11日

・義経、参院。行家の謀反を制止できない旨を奏上。行家を制止するよう勅答を受ける。13日にも。

「去る十一日並びに今日、伊豫大夫判官義経潛かに仙洞に参り奏聞して云く、前の備前の守行家関東に向背し謀叛を企つ。その故は、その身を誅すべきの趣、鎌倉の二品卿命ずる所、行家の後聞に達するの間、何の過怠を以て無罪の叔父を誅すべきやの由、欝陶を含むに依ってなり。義経頻りに制止を加うと雖も、敢えて拘わらず。而るに義経また平氏の凶悪を断ち、世を静謐に属かしむ。これ盍ぞ大功ざらんか。然れども二品曽てその酬いを存ぜず、適々計り宛てる所の所領等、悉く以て改変す。剰え誅滅すべきの由、結構の聞こえ有り。その難を遁れんが為、すでに行家に同意す。この上は、頼朝追討の官符を賜うべし。勅許無くんば、両人共自殺せんと欲すと。能く行家の鬱憤を宥むべきの旨勅答有りと。」(「吾妻鏡」同13日条)。

10月11日

「今日、佐々木の三郎成綱(本佐々木と号す)が本知行の田地、元の如く領掌すべきの旨これを書き下さる。但し佐々木太郎左衛門の尉定綱の所堪に従うべしと。これ一族に非ずと雖も、佐々木庄の惣管領は定綱なり。成綱分その内に在るが故か。」(「吾妻鏡」同日条)。

10月13日

・行家と義経が日頃相談して鎌倉に反くことが露見。藤原秀衡、義経に与同するとの風説流れる。

兼実は、義経自身決起するのは、

①行家の謀叛を制止するのは不可能で、それに同意した

②平家追討を成功させたのは頼朝代官の義経なのに、それが尊重されていない

③恩賞の伊予国にはみな地頭が置かれて国務が行えない

④恩賞の没官所々20余ヵ所が、すべて取り返されて頼朝の郎従に与えられた

⑤確かな筋から義経誅殺の情報有り、逃げることがかなわない

の五つの理由があると院に奏聞。

〈環境条件〉

①義経が期待する武力の問題:

関東御家人の中にも「郎党親族」を頼朝に粛清され謀殺され恨みを持つ者多い。佐竹一族、甲斐源氏、上総介一門、義仲一党など。また平氏残党もあり。しかも義経・行家は連携。

②院の動向:

頼朝との齟齬あり、追討申請は「頗る許容あり」の雰囲気。

義経離反の報、兼実のもとには側近源季長から伝わった。

「早旦、季長朝臣来たり申して云く、義経・行家同心し鎌倉に反く。日来内議有り。昨今すでに露顕すと。巷説たりと雖も浮言に非ず。義経の辺郎従の説と。相次いで説々甚だ多し。頼朝義経の勲功を失い、還って遏絶の気有り。義経中心怨みを結ぶの間、また鎌倉の辺、郎従親族等、頼朝が為生涯を失い、宿意を結ぶの輩、漸く以て数を積む。彼等内々義経・行家等の許に通せしむ。しかのみならず、頼朝法皇の叡慮に乖くの事太だ多しと。仍って事の形勢を見て、義経竊に事の趣を奏す。頗る許容有り。仍って忽ちこの大事に及ぶと。或いは云く、秀衡また與力すと。子細に於いては実説定まらずと雖も、蜂起に於いてはすでに露顕するなり。」(「玉葉」同日条)。

10月14日

「夜に入り定能卿示し送りて云く、法皇に申すの処、強ち不快の気無しと。悦びを為す。世上の騒動、昨今殊に甚だし。京中の諸人雑物を運ぶ。必ず近年の流例たり。悲しむべしと。平氏誅伐の後、頼朝在世の間、忽ち大乱に及ぶべきの由、万人存ぜざる事か。苛酷の法殆ど秦の皇帝に過ぎんか。仍って親疎怨みを含むの致す所なり。」(「玉葉」同日条)。


つづく



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