元暦2/文治元(1185)年
5月18日
・頼朝、京都の群盗等の蜂起を鎮圧することについて協議。
①戦場を逃れた平氏家人が各地の所領を知行したり盗犯を行っている。
②遠国届住の御家人らが、院宣を獲得し、国司・領家の下文を得て、年貢などを不当に獲得している。
③伊豆守仲綱の子源有綱が義経の婿と称して、近国の荘園・公領を掠め取っていること、の3点について調査・処断を命じる。
「京畿の群盗等蜂起す。敢えて禁じ難きの間、相鎮むべきの子細、今日沙汰を経らる。先ず平氏の家人等の中、戦場を遁れ出るの族、本の在所に閑散せしめ、猶田園を知行す。剰え都鄙に横行し、盗犯を事と為すと。次いで近日、遠江の国居住の御家人等、武威を以て恣に内奏せしめ、或いは院宣を申し下し、或いは国司・領家等の下文を掠め取り、地利を貪り公平を缺くと。次いで伊豆の守仲綱が男、伊豆の冠者有綱と号する者、廷尉の聟として、多く近国の庄公を掠領すと。この[條々の事、その聞こえ有るに依って、殊に奏聞を経て、悉く以て糺断せしむべきの由定めらると。]」(「吾妻鏡」同日条)。
5月20日
・権中納言源通親、院宣により「流人官符」を下す。
前権大納言平時忠(59)は能登、前内蔵頭平信基は備後、前左近衛中将平時実は周防、前兵部権少輔藤原尹明は出雲へ配流。僧は、前法院権大僧正良弘は阿波、前権少僧都全真は安芸、前権律師忠快は伊豆、前法眼能円は備中、前熊野別当法眼行明は常陸へ配流。
このうち時実は、所労を理由に長らく配所に赴かなかった。そればかりか義経・行家の都落ちに同行して生虜にきれ、そのあと頼朝のもとに下ったが、頼朝に京都へ戻され、最後には上総国に流される。
平信基:兵部卿信範(「兵範記」作者)の子、時忠の従兄弟。寿永2(1183)年7月内蔵頭(正四位下)。この月都落ちの際、途中で引き返し摂政基通(24)に同行勧める。壇ノ浦で負傷。
平時実:時忠1男、左近衛権中少将兼讃岐守のため「讃岐中将」と呼ばれる。寿永2年4月左近衛中将に昇進、正四位下。妹が義経の本妻となったのを契機として、頼朝と不和になった義経に急速に接近して行った。
全真;二位尼・時子は全真の母が自分の妹であった関係から、彼を猶子とした。それで全真は、『二位の法眼』と呼ばれ、頗る権勢があった。
忠快;中納言・平教盛の子。早く出家し、覚快法親王の門に入り、安元2年(1176)に受戒。慈円や玄理に師事し青蓮院に止住した。養和元年(1181)3月、阿闍梨に補され、10月、権律師・静暹(じようせん)より灌頂を受けた。同年11月6日、覚快法親王が入滅した日、法親王門下の慈円は法印に叙され、忠快は、権少僧都・玄理の譲りによって権律師に任じられた。結束の固い教盛の息子たちの一人として、平家一門と共に西奔した。
能円:父は左大臣頼長の家司の皇后宮亮藤原顕憲、母は太皇太后令(よし)子内親王の家の下仕えの女房。初め、彼女は兵部権大輔平時信の愛人となり時子・時忠を産む。その後、顕憲の愛人となり能円を産む。能円12歳の時、父没し、異父姉時子は能円を引取り養子として後見者となる。平家の盛運とともに能円も栄進、治承3(1179)年4月法勝寺執行となる。刑部卿藤原範兼の娘範(のり)子と結婚、在(あり)子を産む。治承4年(1180)7月、能円の妻・範子は高倉天皇第4子尊成(たかひら、後鳥羽天皇)の乳母となる。寿永2年(1183)7月、能円は妻子を都においたまま単身西海へ走った。翌8月、第四皇子尊成は図らずも天皇に擁立された。
行命(ぎようめい);前熊野別当法眼。第19代別当・行範の前妻腹の子。12世紀後半、熊野別当家には内紛があった。女系的性格の強い別当家では、源為義が15代別当・長快の娘・立田御前に産ませた娘(後の鳥居禅尼)が決裁権を握っていたが、彼女は18代別当・湛快の妻となって湛増を儲けた。湛快の死後、彼女は新宮の行範を婿に迎えて行快らを産み、行範は19代別当に補された。為義の子・新宮十郎行家は、この行範らに匿まって貰い、平家の眼から逃れていた。
本宮の湛増は、自分を捨てた母に反感を抱いていたらしく、行範や行快が源氏寄りなのに対し、積極的に平家に接近し、その恩顧を蒙っていた。彼は、自分の異母姉妹が新宮の行快の妻となり、子まで産んでいたのを引き離し、彼女を熊野と緑の深い薩摩守・平忠度の妻とした。
治承4年(1180)夏、以仁王の令旨は逸早く新宮や那智に伝達されたが、権別当の湛増は、この情報を直ちに福原の清盛に伝えると共に、行快が執行する新宮、および那智に先制攻撃をかけ、平家に功績を積んで一山の支配権を獲得しようと企てた。しかし3日にわたる激戦の後、湛増の軍は痛手を蒙って敗退した。その後、形勢を見るに敏な湛増は、別当・範智を動かして反平家的立場に転じ、新宮や那智とも妥協した。
平家は、朝廷を通じて別当・範智、権別当・湛増を罷免し、湛増や行快に対立していた行範の前妻腹の行命を別当に任命し、熊野の反平家的勢力を制圧させようと試みた。しかし、範智ののち6年間ほど別当が空席となっており、熊野の衆徒の多くが平家のが要請したこの宣旨を受けず、騒然たる情勢が続いていた模様である。
『玉葉』によると、「南法眼と呼ばれ、熊野の輩のうちただ一人志を官軍に有する者』である別当法眼の行命は、養和元年(1181)10月初め、郎党らと共に熊野から脱出し、上洛する途上、高野山西口の志賀駅(しがのうまや)のあたりで紀伊国の在庁の官人らに襲われ、子息、郎党は討ち取られ、行命は命からがら山中に身を隠し、行方を失ったと言う。壇ノ浦で捕虜になった点から推しはかると、行命は辛うじて都に入って平家に保護を求め、その後、平家と行動を共にしていたと推察できる。
5月21日
・頼朝、勝長寿院の本尊阿弥陀如来像造立のため仏師成朝を鎌倉に招く。この日、鎌倉到着。
「二品左典厩を相伴い、南御堂の地に渡御す。造営の躰を巡見し、堂舎の在所等を談合せしめ給うと。また南都の大仏師成朝、御招請に依って参向す。これこの御堂の仏像を造立せんが為なり。」(「吾妻鏡」同日条)。
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