2022年12月21日水曜日

〈藤原定家の時代216〉元暦2/文治元(1185)年7月3日~7月7日 後白河、壇ノ浦で死亡した幼帝安徳の諡号について兼実に諮問 宇都宮朝綱、平貞能の助命嘆願に奔走し容れられる   

 


〈藤原定家の時代215〉元暦2/文治元(1185)年6月13日~6月30日 義経に与えていた平家没管領24ヶ所を没収 宗盛(39)清宗(16)父子斬殺 重衝(28)斬首 より続く

元暦2/文治元(1185)年

7月3日

・この日、右大臣兼実に対し、壇ノ浦で死亡した幼帝・安徳天皇の諡号のことについて、後白河から諮問。

これに対する兼実の答え。「先帝を始め奉り、凡そ戦場終命の士卒等のため」ということで、永代にわたる鎮魂供養を提案。

このとき長門国に命じて一堂を造らせることが実行されたかどうかは不明。その後、建久2年(1191)閏12月、後白河が不予に陥ったとき、兼実は崇徳院と安徳天皇のためにそれぞれ一堂を讃岐・長門両国に建てることを後鳥羽天皇に上奏し、それが認められるので(『玉葉』)、建てられたとすればこのときか。長門堂とか阿弥陀堂(寺)といわれたものがこれで、今その跡は天皇の陵(阿弥陀寺陵)とされている。

「先帝の御事、外記の勘(かんが)へ申す如くば、和漢の例、共に以て追尊の儀あり。殊に行はるる無きは、只淡路帝のみ。然れども、かれ尚追ひて改葬修善の事等あり。何(いか)に況んや、先帝逆賊の党類に伴ひ、宮を避け城を出づと雖も、幼稚の叡念を察し、同心合謀に及ばざるか。優恕(いうじよ)の条、専ら異議無きか。成人奸謀の敵君、猶怨霊を謝せんため、尊崇の儀あり。幼齢服親の先主、須(すべか)らく悲命を傷み、慈仁の礼を施すべきか。所謂追号修善これか。師尚勘(かんが)へ申す如く、長門国に仰せ、一堂を建てらるる、尤も上計たるか。上先帝を始め奉り、凡そ戦場終命の士卒等のため、永代の作善(さぜん)を置かるべきなり。且つこれ先帝追尊の趣に叶ふ。抑又罪障懺悔の法たるか。但し国土殊に凋弊(てうへい)し、営造若し煩ひあらば、強(あなが)ちに火急にあらずと雖も、漸々土木を終るべきか。愚案の旨、大概勒状(ろくじやう)、これらの趣を以て計らひ奏せらるべき状件の如し。」(『玉葉』)

先帝の御事についてでありますが、外記の調査によれば、こうした場合和漢ともに諡号を送るのが通例で、それが行われなかったのは淡路帝だけであるとのことです。それでも改葬や墓地の修築のことはなされたといいます。まして先帝は逆賊の一派に伴なわれて宮殿を離れ洛外に出られたわけで、その幼い御心を察しますに、協議に加わりそれに同意されるなどということはあり得なかったに違いありません。したがって、これを咎めだてないことには異議はないことと思われます。これまで成人に達した悪逆の暴君についても、その怨霊を宥めるためにこれを崇め祀ったという例があります。まして幼いため親のなすままに従った先帝のような場合は、その悲運に同情を寄せ、慈悲に満ちた処遇をおこなうべきでありましょう。そしてそれは、諡号を贈ることとその菩提を弔うことにほかなりません。大外記の中原師尚が検討のうえ進言しましたように、長門の国に命じて一宇の御堂を建立なさることが、もっとも上策であると思われます。上は先帝を初めとして、およそ戦場で命を捨てた士卒たちのため、永代にわたる供養の措置を講ぜられるべきであります。それがとりもなおさず、先帝に諡号をたてまつるという趣旨にかなうことでもあり、そしてまた罪障を懺悔するてだてともなりましょう。ただし国土がいちじるしく疲弊し、御堂の造営にもし支障があるようならば、無理に急がなくてもよいから、ゆっくりと土木の功をとげるようにすればよいと存じます。

7月7日

・この頃、平貞能、鎌倉の宇都宮左衛門尉朝綱の許に現れる。朝綱は貞能の助命嘆願に奔走、容れられて、貞能は下野宇都宮に隠遁。

朝綱が武蔵国の畠山重能・小山田有重らとともに平氏に属して在京していた時、頼朝の挙兵を知ったが、平宗盛は朝綱らの関東下向を許さなかった。その際、平貞能が宗盛を説得してくれたおかげで、無事に頼朝のもとに馳せ参じることができ、平氏一門の追討に従事することができた。したがって、貞能は単に個人的に恩があるだけではなく、頼朝にとっても功のある者である、と説得。

この朝綱の主張は認められ、貞能は代表的な平氏家人であったにもかかわらず、死罪を免れて朝綱に預け置かれることとなった

「前の筑後の守貞能は平家の一族、故入道大相国専一の腹心の者なり。而るに西海合戦敗れざる以前に逐電し、行方を知らざるの処、去る比忽然として宇都宮左衛門の尉朝綱が許に来たる。平氏の運命縮まるの刻、その時を知り、出家を遂げ、彼の與同の難を遁れをはんぬ。今に於いては、山林に隠居し往生の素懐を果たすべきなり。但し山林と雖も、関東の免許を蒙らずんばこれを求め難し。早くこの身を申し預かるべきの由懇望すと。朝綱則ち事の由を啓すの処、平氏近親の家人なり。降人たるの條、還ってその疑い無きに非ずの由御気色有り。随って許否の仰せ無し。而るに朝綱強いて申請して云く、平家に属き在京するの時、義兵を挙げ給う事を聞き、参向せんと欲するの刻、前の内府これを免さず。爰に貞能朝綱並びに重能・有重等を申し宥めるの間、各々身を全うし御方に参り、怨敵を攻めをはんぬ。これ啻に私の芳志を思うのみならず、上に於いてまた功有る者かな。後日もし彼の入道反逆を企てる事有らば、永く朝綱が子孫を断たしめ給うべしと。仍って今日宥めの御沙汰有り。朝綱に召し預けらるる所なり。」(「吾妻鏡」同日条)。


つづく



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