2022年12月12日月曜日

〈藤原定家の時代207〉元暦2/文治元(1185)年4月13日~4月21日 頼朝の推挙を経ずに「衛府所司等の官」に任じられた「関東御家人」24名に東国帰還禁止命令(自由任官問題の再燃) 梶原景時の使者、義経の不義を讒訴  「人の恨みを成す。景時に限らずと。」(「吾妻鏡」)    

 


〈藤原定家の時代206〉元暦2/文治元(1185)年3月27日~4月11日 壇ノ浦の戦い戦勝、京都及び鎌倉に伝わる 「先づ生虜等の事如何。次に三種の宝物帰り来たる間の事如何。この両条殊に計らひ申すべし云々といへり。」(『玉葉』) 「武衛則ちこれを取り、自らこれを巻き持たしめ給い、鶴岡の方に向かい座せしめ給う。御詞を発せらるること能わず。」(『吾妻鏡』) より続く

元暦2/文治元(1185)年

4月13日

・この日付け『吾妻鏡』によれば、前年の元暦元年9月に、平家追討の祈祷の功を賞する頼朝下文によって寺領を安堵された武蔵国威光寺(いこうじ)が、小山有高という武士による寺領侵略を訴えたところ、寺領返付の「下知」が広元によって下され、その「下知」には二階堂行政・足立遠元・大中臣秋家・藤原邦通たち公文所寄人が「連署」したという。「連署」という記述より、何らかの文書が発給されたことになるが、この訴訟裁定に頼朝が直接関与した形跡は見られない。広元主導の下で、軽微な訴訟に関しては公文所が相対的に自立した訴訟処理を行なった事例といえる。

この争いは、公文所の裁定によっても収まらなかったようで、9月5日に再び小山有高の押領を停止する旨の頼朝の裁定が下される。

「小山の太郎有高の為寺領を押領せらるの由、去年九月給う所の御下文を捧げ、訴え申す所なり。仍って今日沙汰を経らる。御下文を帯すの上は、その功を失い、濫妨を成すこと能治の計に非ず。元の如く返し付くべきの由、因幡の守廣元下知を加うに依って、主計の允行政・右馬の允遠光・甲斐の小四郎秋家・判官代邦通・筑前の三郎孝尚等連署すと。」(「吾妻鏡」同日条)。

4月14日

・大蔵卿高階泰経の使者、鎌倉に着。院からの「御感」(お褒め)の言葉を伝えられる。また、この日、幕府の吏僚であった斎院次官親能の舅に当たる波多野四郎経家が鎮西より帰還し、早速御前に召し出されて合戦のことをいろいろと尋ねられる。

「大蔵卿泰経朝臣の使者関東に参着す。追討無為、偏に兵法の巧に依るなり。叡感少彙の由申すべきの趣、院宣を被る所なりてえり。武衛殊に謹悦し給うと。今日、波多野の四郎経家(大友と号す)鎮西より帰参す。これ齋院次官親能の舅なり。則ち御前に召し、西海合戦の間の事を問わしめ給うと。」(「吾妻鏡」同日条)。

4月15日

・頼朝、頼朝の推挙を経ずに「衛府所司等の官」に任じられた「関東御家人」24名に東国帰還禁止命令。命令に背いて墨俣より東国に下るなら所領没収・斬罪とする。

前年来の自由任官問題の再燃。一人一人を挙げ悪口を付す。義経の郎従の佐藤忠信、頼朝の許可なく自由任官した東国住人として叱責される(「吾妻鏡」同日条)。

関東への忠節を御家人に問う。鎌倉殿への畏怖を改めて印象付ける。

後藤兵衛尉基清・梶原刑部丞朝景・豊田兵衛尉義幹・平山右衛門尉季重・八田右衛門尉知家・小山兵衛尉朝政・中村右馬允時経・佐藤兵衛尉忠信ほか。但し、何故か義経の名はない

「関東御家人、内挙を蒙らず、功なくして多く以て衛府所司等の官を拝任す。各ことに奇怪の由、御下文を彼の輩の中に遣わさる。・・・

下す 東国侍の内任官の輩中 本国に下向するを停止し、各在京して陣直公役を勤仕せしむべき事 副えて下す交名注文 右任官の習い、或いは上日の労を以て御給を賜い、或いは私物を以て朝家の御大事を償い、各々朝恩に浴す事なり。而るに東国の輩、徒に庄園の年貢を抑留し、国衙の官物を掠め取り、成功に募らず自由に拝任す。官途の陵遅すでにこれに在り。偏に任官を停止せしめば、成功の便無きものか。先官当職を云わず、任官の輩に於いては、永く城外の思いを停め、在京し陣役に勤仕せしむべし。すでに朝列に廁う。何ぞ籠居せしむや。もし違い墨俣以東に下向せしめば、且つは各々本領を召され、且つはまた斬罪に申し行わしむべきの状、件の如し。・・・兵衛の尉義廉 鎌倉殿は悪主なり。木曽は吉主なりと申して、父を始め親昵等を相具し、木曽殿に参らしむなんどと申て、鎌倉殿に祇候せば、終には落人となり給うと。処せられなんとて候しは、何に忘却せしむか。希有の悪兵衛の尉かな。 兵衛の尉忠信 秀衡の郎等、衛府を拝任せしむ事、往昔より未だ有らず。涯分を計り、おられよかし。その気にてやらん。これは猫にをつる。 兵衛の尉重経・・・ 渋谷馬の允 父は在国なり。而るに平家に付き経廻せしむの間、木曽大勢を以て攻め入るの時、木曽に付いて留まる。また判官殿御入京の時、また落ち参る。・・・能く用意して加治に語らい、頸玉に厚く巻金をすべきなり。 小河馬の允・・・ 兵衛の尉基清 目は鼠眼にて、ただ候すべきの処、任官希有なり。 馬の允有経・・・ 刑部の丞友景 音様しわがれて、後鬢さまで刑部からなし。 同男兵衛の尉景貞・・・ 兵衛の尉景高 悪気色して、本より白者と御覧ぜしに、任官誠に見苦し。 馬の允時経 大虚言計りを能として、えしらぬ官好みして、甲斐庄と云うを知らず。あわれ水駅の人かな。悪馬細工して有れかし。 兵衛の尉季綱・・・ 馬の允能忠・・・ 豊田兵衛の尉 色は白らかにして、顔は不覚気なるものの・・・ 兵衛の尉政綱・・・兵衛の尉忠綱・・・右衛門の尉季重・・・左衛門の尉景季・・・縫殿の助 顔はふわふわとして・・・宮内の丞舒国 大井の渡りに於いて、声様誠に臆病気にて・・・刑部の丞経俊・・・右衛門の尉友家・・・兵衛の尉朝政・・・」(「吾妻鏡」同日条)。

4月19日

・壇ノ浦の敗残者を乗せた船団が難波に到着したとの摂津渡辺から義経の飛脚、院御所に着。入洛は25日の吉日と指定する。

4月20日

・この日、三種の神器のうち海底に沈んで回収できなかった宝剣を除く神璽と神鏡が淀川の川口に当たる渡辺の津に到着。ただちに、権中納言経房を上卿として参議左中将泰通以下の公卿たちを鳥羽に派遣。

4月21日

・梶原景時の使者、鎌倉に到着。義経の不義を讒訴(「吾妻鏡」)。

①「己一身の功」に拘り、「多勢の合力」を蔑にしている(御家人に功を与えない)、

②日頃心懸けるべき行儀をわきまえていない。

梶原景時の言い分。

義経は今回の勲功を自分ひとりのもののように思っているが、それは御家人達の協力によるものである。平氏滅亡の後、義経の「形勢」は増す一方で、士卒達は薄氷を踏む思いである。それにも関わらず、義経には「真実和順の志」がない。特に景時は、頼朝の側近として厳命の趣旨をよく知っており、義経の「非拠」を諌めると、「諌詞(かんし)」はかえって身の仇となり、刑罰を蒙りかねない。合戦が収まった今、義経の側に伺候していても無益なので、早く許しを得て鎌倉に帰参したい、という(『吾妻鏡』同日条)。

ついで『吾妻鏡』は地の文で、和田義盛と梶原景時は侍所の別当と所司(長官と次官)として、義経と範頼を西海に派遣するにあたって、「軍士」のことを奉行させるために、義盛を範頼につけ、景時を義経につけた。範頼はもとより頼朝に背かず、大・小事につけ義盛等に示し合わせてきた。ところが、義経は「自尊の慮(おもんばかり)」で、頼朝の意向を守らず、「自由の張行(ちようぎよう)」で人々の恨みをかっており、それは景時に限らなかった、と義経を批判。

「人の恨みを成す。景時に限らず」とは、義経の奔放な行動が非難の的になっていたということ。義経の勝利の連続は、範頼に率いられて山陽道・九州に苦しい転戦を重ねてきた東国御家人にとっては、自分たちの恩賞の機会を奪われたことによる怨嗟の対象になっていた。景時も、侍所所司(しょし、次官)として義経軍の監督にあたっていたが、面子を潰されたことも多かったろうと思われる。頼朝としては、そうした御家人の不満を意識せざるを得なかった。

「梶原平三景時の飛脚鎮西より参着す。親類を参進し書状を献上す。始めは合戦の次第を申す。終わりは廷尉不義の事を訴う。その詞に云く、・・・また曰く、判官殿君の御代官として、御家人等を副え遣わし、合戦を遂げられをはんぬ。而るに頻りに一身の功の由を存ぜらるると雖も、偏に多勢の合力に依らんか。謂うに多勢の人毎に判官殿を思わず、志君を仰ぎ奉るが故、同心の勲功を励ましをはんぬ。仍って平家を討滅するの後、判官殿の形勢、殆ど日来の儀に超過す。士卒の所存、皆薄氷を踏むが如し。敢えて真実和順の志無し。就中、景時御所の近士として、なまじいに厳命の趣を伺い知るの間、彼の非拠を見る毎に、関東の御気色に違うべきかの由、諫め申すの処、諷詞還って身の讎と為る。ややもすれば刑を招くものなり。合戦無為の今、祇候の拠所無し。早く御免を蒙り帰参せんと欲すと。凡そ和田の小太郎義盛と梶原平三景時とは、侍の別当・所司なり。仍って舎弟の両将を西海に発遣せらるるの時、軍士等の事、奉行せしめんが為、義盛を参州に付けられ、景時を廷尉に付けらるるの処、参州は、本より武衛の仰せに乖かざるに依って、大小の事常胤・義盛等に示し合わす。廷尉は、自専の慮りを挿み、曽って御旨を守らず、偏に雅意に任せ自由の張行を致すの間、人の恨みを成す。景時に限らずと。(「吾妻鏡」同日条)。

4月21日

・後白河院、非参議大蔵卿高階泰経を右大臣兼実の許に派遣、建礼門院の処遇に関して意見具申を求める。兼実は武家に預けるべきではない、然るべき片山里におくべきと答申。又、宗盛についても死罪は妥当ではなく、流罪にすべきと言上。明法博士は宗盛父子を死罪と具申しているが、優諚により刑一等を減じて遠流というのが法皇の意向。しかし、頼朝の意向により宗盛父子は武家預けとなる。

「泰経卿を以て密々尋ね問わるる事等 一、建禮門院の御事如何。・・・申して云く、武士に付けらるる事、一切候べからず。古来、女房の罪科は聞かざる事なり。然るべき片山里の辺に座せらるべきか。 一、前の内府の事如何。義経申して云く、相具し入京すべきか。将又河陽の辺に留置すべきか。死生の間の事、頼朝に仰せ合わさるべきか。私に申し遣わしをはんぬ。・・・申して云く、この事更に思し食し煩うべからざるなり。追討の由を仰せられ、梟首すべきの由疑い無しと雖も、生虜として参上す。その上死を賜うべきの由仰せられ難し。我が朝死罪を行わざるが故なり。保元この例有り。時の人甘心せず。仍って今度、左右無く遠流に処せらるべきなり。・・・東海・東山等の遠国に遣わさるべきなり。・・・ 一、頼朝の賞の事、請いに依るの由仰せらるべし。・・・申して云く、理須く暗に仰せらるべきなり。而るに彼の意趣知り難きか。仍って請いに依るの由仰せられ如何。但しその賞上階の上、都督若しくは衛府の督等の間か。・・・」(「玉葉」同日条)。


つづく



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