2022年12月7日水曜日

〈藤原定家の時代202〉元暦2/文治元(1185)年3月24日 壇ノ浦合戦(5) 〈戦場を離脱した盛久と盛嗣のその後〉


 〈藤原定家の時代201〉元暦2/文治元(1185)年3月24日 壇ノ浦合戦(4) 〈『平家物語』巻11の中の壇ノ浦合戦〉 〈「能登殿最後」〉 〈知盛の最期〉 〈生き残った人々〉 より続く

元暦2/文治元(1185)年3月24日 壇ノ浦合戦(5)

〈戦場を離脱した盛久と盛嗣のその後〉

壇ノ浦の合戦では、平家の軍兵には機敏に戦場から離脱・逃亡した者が少くなかった。

平家軍に加わった豊後国の八代宮の神主、七郎兵衛尉こと重安と子の小太郎重茂(しげとよ)は、得意の永練で文字(門司)の浦から柳浦まで泳ぎ切り、無事故郷に帰還した。後に七郎兵衛尉は鎌倉に参向して自らの罪科を訴えたが、神主の故をもって罪科を免じられた上、社領八十五町も安堵されたと言う。

注目されるのは、剛勇をもって聞えた平家の侍たち、主馬八郎左衛門こと平盛久、越中次郎兵衛こと平盛嗣、上総五郎兵衛こと藤原忠光、悪七兵術の藤原景清、飛騨守・藤原景家の四男の飛騨四郎兵衛らが夕闇に紛れて巧みに姿を晦したことであった。

■平盛久の場合

平盛久は、伊勢守・盛国の八男で、主馬判官と呼ばれた盛国の字に因んで主馬八郎左衛門と言われた。盛久は、承安3年(1173)頃、東寺の灌頂堂を修理し、その成功によって承安4年正月、右兵衛尉に任じられた。同じ日、「盛国の別功の賞」によって左兵衛尉に任じられた平盛綱は、盛久の兄。盛綱は、安元元年(1175)12月、内舎人正六位に任叙され、承安4年左兵衛尉に昇任し、治承2年(1178)12月に、東宮の主馬首(しゆめのかみ)を兼任した。治承4年には既に左衛門尉に進んでいた。

盛久も、盛綱と同様に左衛門尉に任じられたが、その年紀は不明。盛久は若年より仏心が篤く、仁安2年(1167)には、紀伊国牟婁郡の戸張保(とばりのほ)その他の未開墾地を高野山に寄進している。"

壇ノ浦後、盛久は都に潜入した。長門本『平家物語』(巻20)によると、清水寺の阿闍梨良観に篤く帰依していた盛久は、等身大の千手観音像を造立してこれを金堂の内陣の本尊の右脇に安置して貰い、年来の宿願としてこれに千日参りを始めた。

文治2年(1186)、ある下女が盛久のことを鎌倉方に密告した。長門本では、北條時政が鎌倉の代官として都に駐在していた時(文治元年11月25日~翌2年3月28日)とされているが、左馬頭・藤原能保が文治2年3月27日、京都守護となり、鎌倉の代官を勤めた直後のことらしい。密告によって盛久が毎夜、白い直垂を着、跣(はだし)で清水寺に詣でていることが判明したので、彼は直ちに召捕られてしまった。

鎌倉に護送された盛久に対して、景時が取調べに当たったが、彼は心中の所願について殆ど陳べず、平家の重代相伝の家人として処刑されることとなった。

文治2年6月28日、御家人土屋三郎(宗遠)が、盛久を由比浜で頚を刎ねようとしたところ、刀身が三つに折れてしまった。別の太刀で斬ろうとしたが、今度は目釘から折れた。奇異に感じた宗遠は、清水寺の観音の加護のためか、刀が折れ、盛久の頚が斬れなかった旨を頼朝に言上した。ちょうどその時、政子は、清水寺のあたりに住む墨染の衣を着た老僧が一人現れて、盛久の斬罪を宥(ゆる)すよう頼んだ夢を見た。そこで頼朝は盛久を召し、親しく彼に問うこととした。

頼朝の問いに対して盛久は、清水寺に千手観音像を造立し、千日参りの宿願を立てて詣でていた旨を答えた。頼朝はまた彼に所領のことを訊ねたので、彼は紀伊国に荘園を所有していたが、平家没官領として頼朝の手に帰している由を述べた。頼朝は、盛久の旧領の荘園を彼に返付することを約し、所領安堵の下文を与え、また都に帰るため鞍馬一匹を贈った。さらに頼朝は、後白河の法住寺殿を再建する料に充てていた越前国今立郡の池田荘(今立郡池田町)を盛久に与え、その収益をもって法皇の御所を造営させるよう時政に命じた。

都に入った盛久は、すぐに清水寺に参って本尊を拝し、艮観阿闍梨につぶさに事の次第を報告した。阿閣梨は、去る6月28日午の刻、盛久が安置した千手観音像が俄かに倒れて手が折れたので、寺では不思議に思っていたが、鎌倉の地にある貴殿を救済されるためであることが分かったと語った。都の貴賎はこの話をきき、新造の千手観音の御利益は、古くからの仏に勝っていると、この新仏をいやが上にも尊んだと言う。

この観音利生譚は、謡曲『盛久』の主題にまでなっているが、どこまでが事実で、どれが虚構であるかを判別することは難しい。

ただ盛久に越前国の池田荘(の預所職)を与え、法住寺殿の再建に当たらしめたと言うのは問題。法住寺殿は、寿永2年(1183)11月、『法住寺合戦』の折りに焼亡して以来、建久2年まで再建されなかった。いずれにせよ、盛久が好運にも罪科を赦され、所領の安堵を得て安らかな晩年を送ったということは、察するに難くない。

■平盛嗣の場合

越中次郎兵衛こと平盛嗣は、越中守平盛俊の次男で左兵術尉であった。父に劣らぬ剛勇の士で、平家屈指の勇将として北陸道に、また一ノ谷、藤戸、屋島に転戦し、勇名を轟かせた。鎌倉方は、壇ノ浦で行方をくらましたこと気を遣っていた。建久3年(1192)に上総五郎兵衛藤原忠光が捕えられた時、彼は盛嗣が去年丹波国に潜伏していたが、現在の居処は知らないと申し立てたの。

建久4年(1193)3月、幕府は京都守護藤原能保に通牒し、盛嗣が都の近国に潜伏している由の風聞があるから、兵衛尉藤原基清に命じて追討すべき旨を要請。

壇ノ浦以後の盛嗣の動向について、『平家物語』延慶本・長門本では、戦場から逃れた盛嗣は、盛久らと共に都に潜入。しかし都では平家残党に対する詮索が厳しく、危険を覚えたらしく、盛嗣は但馬国に下り、城崎郡気比(けひの)荘(豊岡市気比)を本拠とする豪族の気比権守こと日下部道弘の屋敷に潜り込み、その馬飼となった。長門本によると、道弘は彼が越中次郎兵衛であることを察知したが、黙認していたと言う。

やがて、盛嗣は道弘の娘と結婚し、度々京に上るようになった(同志との連絡のためであったろう)。上京した時は、馴染んだ女の許に彼は通っていたが、そのうち盛嗣は女に気を許して、「自分は今、但馬国気比の権守道弘の許にいるのだが、絶対これを他言するではないぞ。」と言ってしまった。

建久5年の頃、鎌倉方の盛嗣に対する追及は至って厳しく、勧賞を餌に行方を捜していた。この女にはまた別に情夫がいて、女はその情夫に盛嗣の居場所を知っていると洩してしまい、情夫が盛嗣の居場所を密告した。

建久5年(1194)、道弘は大番役に当たり都に勤務していた。盛嗣を搦め捕って身柄を差出せとの京都守護の命を受けた道弘は、自分は国許に下らず、妹聟で尊父郡朝倉(兵庫県養父郡八鹿町朝倉)に住む朝倉太郎大夫日下部高清ならびに家人たちに盛嗣を搦めて進めるよう命じた。五分と五分では剛勇無双の盛嗣にかなわぬと知っていた彼らは、入浴中の盛嗣を大勢で襲い彼を搦めとった。都へ護送された盛嗣は、直ぐに鎌倉送りとなった。

庭前に引き据えられた盛嗣に向って、頼朝は、

「お前は、平家の侍とは言いながら、特に血縁の近い者なのに、なぜ一族と一緒に死ななかったのか。」

と尋ねると、盛嗣は、

「平家が余りにも脆く滅びてしまったのが無念なので、もしや、鎌倉殿を刺す機会はなかろうかと思って生き永らえたのです。立派な刀身の太刀や鋭い鏃(やじり)のついた征矢(そや)も鎌倉殿を狙うために用意しておりました。しかし武道拙くこうなった上は、なにも申し上げることはありません。」

と臆することなく答えた。頼朝が、

「お前の志は立派である。頼朝に仕える気なら命を助けてやるが。」

と言うと、盛嗣は、

「勇士は二主に仕えずと申します。盛嗣ほどの者に心を許されては、必ず後悔されますでしょう。お情けがあるならば、速かに首を刎ねていただきたい。」

と、堂々と言い切った。頼朝は、「虎を養う愁いがある」と悟り、由比浜に盛嗣を引出して斬らしたが、盛嗣の見事な態度に感歎せぬ者はいなかったと言う。


つづく



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