2011年9月11日日曜日

明治36年(1903)4月1日~5日 漱石、一高・東大講師となる。 堺利彦「家庭雑誌」創刊

明治36年(1903)
4月
平塚明子(17)、日本女子大(校長成瀬仁蔵)入学。
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・宮沢賢治(7)、花巻川口(のちに花城と改称)尋常高等小学校に入学。
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有島武郎、与謝野晶子「みだれ髪」を初めて読み衝撃をうける。この年8月渡米。
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堺利彦(「萬朝報」記者)、自ら由分社を創設し、家庭向けの定期刊行物として『家庭雑誌』を創刊
堺は「萬朝報」に籍を置いて給料をもらいながら、会社(由分社)経営者として雑誌を刊行、副収入を得るようになる。
「由分社」という社名は、堺が使っていた「由分子」という筆名からつけたもの。荒畑寒村によれば「由分」とは「堺」の字を分解したものだという(『寒村茶話』)。

『家庭雑誌』創刊号の「我輩の根本思想」で堺は述べる。

「社会主義は人類平等の主義である、人類同胞の主義である、相愛し相助くる共同生活の主義である。そこで此社会主義より見る時は、夫婦は平等にして、相愛し相助け、真の共同生活を為すのが家の理想である。
家庭は即ち其理想を現はすべき場所である。
(中略)此家庭の中よりして漸々社会主義を発達せしめて行かねばならぬ。
是れが此雑誌を作るについての我輩の根本思想である。」

内村鑑三は「家庭雑誌の発刊を祝して」で、社会改革は先ず家庭改革からと述べる。
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・漱石(36)、第一高等学校講師(年俸700円)、ラフカディオ・ハーンの後任として東京帝国大学文科大学英文科講師(年俸800円)となる。東京帝国大学では「英文学概説」などを講義。

3月31日付けで第五高等学校教授を依願免官(退職金約500円)。
4月、第一高等学校講師(週20時間、年俸700円)、東京帝国大学文科大学講師(週6時間、年俸800円)となり、間もなく(翌年1904年9月)生活のため明治大学高等予科講師(土曜日4時間、月給40円)を兼任する。計に週30時間は激務。

東大での最初の講義は、ジョージ・エリオット(1819-80)の『サイラス・マーナー』(主人公の心理描写に特色のある小説)訳と「英文学概説」。
前任の小泉八雲(ラフカディオハ-ン 1850-1904)が解任された直後で、小泉を慕う学生の間で小泉の留任運動が行われていて、漱石の講義は最初は不評
(小泉は7年間東大で英文学を講じていた。また小泉は、この前第五高校でも漱石の前任者であった)。
学部長の井上哲次郎(1855-1944、キリスト教を反国体的宗教として排撃。天皇制国家における国民道徳のあり方を論じる)は、漱石(36)、上田敏(29)、アーサー・ロイドの3講師は、小泉八雲雇講師1人の俸給で招聘されたと公言している。
これだけでも漱石にとって東大は愉快なところではなかった。

第一高等学校に前年9月に入学し、このとき1年級にいた生徒には、野上豊一郎(20)、茅野儀太郎、安倍能成(20)、青木得三、中勘助、有田八郎、前田多門、堀切善次郎、藤村操(17、東京高等師範学校の歴史学の教授那珂通世の甥)などがいた。

臼杵中学から来た野上豊一郎は、五高の雑誌に夏目が俳句を書いていたことを知っており、松山中学から来た安倍能成は、小学生のとき松山中学の先生だった夏目の後をつけて歩いたこともあり、夏目が子規の友人であり、俳句を作っていることを知っていた。
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・長谷川天渓「解決なき創作物」(「太陽」)  
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・前田夕暮(19)、大磯で「湘南公同会雑誌」を発行。
以降、「新声」「中学文壇」に美文・短編・短歌・俳句など投稿。
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・これまで中正独立を持していた「大阪朝日」「大阪毎日」、ロシアの第1期撤兵期日をめぐり対露強硬論を唱える。
徳富蘇峰「国民新聞」・三宅雪嶺「日本」は早くから挙国一致の聖戦を主張。
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・(露暦4月)ロシア、ペテルブルク、第2回ゼムストヴォ大会
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・ドイツがイラクに敷設予定のコニヤ~バスラ間のバグダッド鉄道、仏英の資金提供者が辞退し先行き不透明に。(資金提供に反対する新聞キャンペーンのため辞退)
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・グスタフ・マーラー、レムベルクで『交響曲ニ長調』を2回演奏。
10月アムステルダムで1回演奏。
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・ベトナムのハノイ~ハイフォン間の鉄道開通。
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4月1日
・郵便電信局という名称が廃され郵便局となる。
 大阪中央郵便局・大阪電話局・大阪電信局、設置。
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4月1日
・東京の日本鉄道豊島線、池袋~田端間開通。    
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4月1日
・京都帝国大学の福岡医科大学開校。
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4月1日
・皇太子御成婚記念京都市紀念動物園開園。
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4月2日
・「日清義盛公司」(社長阿部準輔)、設立。
ロシア「東亜木材会社」による鴨緑江森林伐採に対抗するため、まず、韓国市民3名による「平安北道鴨緑江上下一帯」の伐採を行う「理財会社」を設立させ、ついで、この伐採権を清国系「義盛公司」に譲渡、更に、これが「日清義盛公司」に改組される。
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4月3日
・この日、社会主義労働者観桜会。
「一昨夜来の空模様とては、昨日の天気も大に気づかはれしに、昨朝は照りもせず、さりとて降りもせざる天候なりしかば、午前十時頃より花見に出掛くる老若男女は引きも切らず、さしも広き上野公園は人を以て埋もれ、

・・・社会主義労働者観桜会は其筋の許可なきにも拘らず、無届にて竹の台へ押出す趣き、前夜己に下谷署に知られたれば同署にては大に驚き、
・・・警部五名騎馬にて、二百余名の巡査を指揮して上野公園の臨時出張所に詰め、警視庁よりは丸山第一部長も出張して警戒なしたるに、労働者観桜会の発企者なる桜井菊太郎は『社会主義大会』と大書したる旗を押し立てて、三十余名を率ゐて先頭第一に陳列館前へ繰込み来りしが、直ちに同人を取押へ、四五名の巡査附添ひ下谷署へ引致したるが、次に十名、二十名位宛隊伍を組みて、加納豊、若松勇吉、岡千代彦、小林兼太郎、小塚空谷等入来りたれど、何れも追帰され、又本郷団体のマッチ会社職工五十余名は浅黄洋服の揃に草鞋を履きしめ、湯島天神境内にて勢揃をなしたる所を、本郷署にて取押へられ、王子製紙会社の職工は未明より飛鳥山に勢揃して繰出す所を板橋署の手に取押さえられ・・・」(「萬朝報」4月4日)
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4月4日
・婦人矯風会大阪支部演説会。土佐堀青年会館、島田三郎「遊郭移転論」・安藤太郎「禁酒」。

「大阪朝野」記者菅野須賀子がこれを取材。島田は時間がないので、翌日の社会主義大会で演説する木下尚江を紹介してもらう。
「夫から例の通り出勤して帰つて見ると例の某氏が態々来訪せられて島田先生帰京せらるゝに臨んで自分は時間の切迫した為に面会を得ず帰京するから其代り東京毎日新聞記者たる木下尚江君が社会主義大会の為に当地に来て居られ今夜中之島公会堂で演説会を開いて出席さるゝ筈で有るかち同君に面会して委しく話をせらるゝ様木下君には余から其事を伝へておくからと親切にも伝言せられたので女史は嬉しさに日の暮れるのを待兼ねて公会堂へ傍聴旁々木下先生に拝顔せんと出掛けたのである。

此夜は前夜島田先生に拝顔した時よりは些か時間の余裕も有つたので予て慷慨悲憤措く能はなかつた醜業婦の舞踏に就て述べると木下先生もさきに島田先生よりその事を概略を聞かれて居たものと見え非常に憤慨して居られた処とて女史と同感大に賛成の意見を表せられたので女史は又もや茲に百万の卒に優る一将を得た思ひ二日間に二人の有力なる味方を得た事とて嬉しさ限りなく是全く神の摂理である事を深く感謝し其他にも種々の興味ある御許を承った後先生の演説を拝聴した……。」(「大阪朝報」)。
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4月5日
・社会主義協会主催の日本社会主義演説会。大阪中之島公会堂。
幸徳秋水「余の社会主義」、安部磯雄「経済上の不安と社会主義」、小笠原誉志夫「戦争廃止論」、西川光二郎「惰怠の福音」、木下尚江「日本における社会的思想の歴史」、片山潜「将に来らんとする新政党」、エックシュタイン(オーストリア)。聴衆700~800。
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4月6日
・翌6日、「社会主義大阪大会」。土佐堀青年会館。
安部磯雄「社会主義協会の過去及将来の方針に就いて」、幸徳秋水「新聞紙及文学上に於ける社会主義」、木下尚江「政治法律社会に於ける社会主義」、西川光二郎「我国に於ける社会主義者の運動」、片山潜「万国社会主義者と我国の社会主義者」、三宅馨「都市と社会主義」、小笠原誉志夫「万国平和と社会主義」。

夜、中之島公会堂演説会。
木下尚江「芸者踊問題」、西川光二郎「中産者と社会主義」、三宅馨「天保の惨劇とその教訓」、児玉花外「大塩中斎先生に告ぐる歌」、幸徳秋水「社会主義と資本家」、片山潜「社会主義の経済」、安部磯雄「社会主義は人生保険なり」。

大会決議
一、吾人日本の社会主義者は、社会主義の基礎の上に人類社会を再建設する努力に向つて奮闘するであらう。
二、我々は日本に社会主義を実現することに努力せねはならぬ。
三、社会主義終局の目的に達するには、万国の社会主義者の合同行為が必要である。
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