永禄8年(1565)
この年
信長32歳、光秀38歳、秀吉30歳、家康24歳
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・明智光秀(38)、朝倉家を出て織田信長のもとに行く。
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・三好義継、父三好長慶の菩提を弔うため、京都大徳寺聚光院を建立。
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・フランス、1565年のカトリーヌ・ド・メディシスの「国内巡幸」旅程:
モンプリエ→1月4日ベジエ(モンプリエ西南65km)→ナルボンヌ→1月12日カルカソンヌ→カステルノダリー→2月1日トゥールーズ→モントーバン(トゥールーズの北50km)→4月9日ボルドー→バザ→モン・ド・マルサン(ボルドー南100km)5月24日出発→バイヨンヌ→サン・ジャン・ド・リュズ→イルン→7月14日ダックス→モン・ド・マルサン→ガスコーニュ地方ネラック→ペリゴール地方ベルジュラック→アングレーム(ベルジュラック北北西90km)→ジャルナック(アングレーム西25km)→ブルアージュ(ジャルナック西80km)→ラ・ロシェル(ブルアージュ北40km)→ニオール(ラ・ロシェル東60km)→ナント→レンヌ→アンジェ→トゥール→シュノンソー→12月末ブロワ→ムーラン(ブロワ東南200km)
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1月
・武田信玄家臣飯富兵部少輔、義信近臣を成敗。
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1月1日
・イエズス会宣教師ビレラとフロイス、幕府を訪れて将軍義輝に新年を祝う。
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1月7日
・北條勢、上野新田で由良勢と戦う
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1月8日
・武田信玄、上野沼田城を窺う。
長尾輝虎(36)、武田信玄上野進入の報に接し、沼田城将松本景繁・河田重親・小中大少輔・小国刑部少輔・新発田長敦に軍備充実指示。また、坂戸城将に沼田城を応援させる。
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1月16日
・山科言継、鞍馬寺参詣。
「参詣の衆、近年の群集なり。輿・馬などその数を知らず」(「言継卿記」同日条)。
庶民信仰も盛ん。
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1月23日
・インド、ヴィジャヤナガル王国、デカン、ムスリム5王国連合軍に大敗。
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1月29日
・松永久秀、多聞山城で茶会。
客は堺隆専・千宗易(利休)・松屋久政・堺宗可。
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2月
・毛利隆元嫡男幸鶴丸、元服。輝元と改名。
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・武田信玄、信濃の諏訪大社と佐久郡臼田の新海大明神に願文を掲げ、箕輪城攻略と惣社・白井・嶽山・尻高の5城の掌握を祈願。
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2月2日
・ロシア、イヴァン4世(雷帝、34)、突然の失踪事件からモスクワ帰還。
4日かた、オブリーチニナを実行。処刑始まる。
イヴァン4世(雷帝)の国土2分割。
①オブリーチニナ(ツァーリ個人の領土)、
②ゼームシチナ(貴族、高官所有)。
ツァーリのみに仕える特権階級・軍団(オブリーチニク)創設。名門貴族の世襲領地剥奪。1万2千家族の移住。
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2月2日
・島井宗叱、大友宗麟に緞子を贈る。
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2月16日
・山科言継、木屋薬師堂(上京区烏丸適正親町付近)の大原問答法談に出かける(「言継卿記」同日条)。
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2月28日
・この日付けルイス・フロイスのインドの教父宛て書簡。
蝦夷松前の蠣崎氏が秋田の安東氏に派遣する交易船。
「日本の極北にて、都より約三百リーグを隔つる所に一大国あり、野獣の皮を着、全身多毛、髪髭頗る長き蛮人之に住す。・・・蝦夷に近きゲスエン地方に秋田という大市あり。彼等は多数此市に来りて貿易し、秋田人も亦時々蝦夷に赴く」(「新北海道史」)と報告。
交易船の中にアイヌ住民がいたことを物語る。
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3月
・毛利輝元、洗骸に着。
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・秋山信友、美濃高野口で織田家臣森可成らと戦う
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・北条勢、下総関宿(古河公方重鎮簗田氏)に出陣。
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・家康(24)、高力清長・本多重次・天野康景を三河3奉行に任命。
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・本願寺と甲斐武田信玄との盟約、成立。
前年からの越前朝倉勢の加賀侵攻への対応。
朝倉勢の侵攻は越後(越中)上杉氏・能登畠山氏と連携したもので、北陸一帯の各勢力や本願寺も、戦国大名間の覇権を巡る戦いに巻き込まれ始める。
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3月1日
・ポルトガル人、リオ・デ・ジャネイロ市建設。
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3月23日
・北條氏康、布施田山城守に武蔵深谷での戦功を賞する
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3月23日
・将軍足利義輝、上杉輝虎(謙信)へ書簡。
前年の北条氏康との講和命令の早急な実行を促す。
北条氏康へは使者を派遣するので交戦を禁止する旨を通達。
上杉を上洛させ、三好・松永つぶさせる目的。
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「★織田信長インデックス」 をご参照下さい。
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