2011年9月12日月曜日

宝亀5年(774) 海道蝦夷、桃生城を襲撃(38年戦争の発端)

宝亀5年(774)
1月20日
・「蝦夷・俘囚の入朝を停む」という詔が出され、毎年行われてきた蝦夷の入朝(上京朝貢)が停止される(『続日本紀』宝亀五年正月庚申条)。

蝦夷の定期的な上京朝貢は7世紀中葉に始まり、大宝律令施行とともに正月行事に組み込まれる。
蝦夷は毎年正月前に上京し、一般官人と共に元日朝賀の儀式に参加、さらにその後の正月朝賀にも参加して、饗宴や禄の支給、叙位に預かっている。

停止の理由は不明だが、・・・・・
蝦夷に対する負担の軽減、
唐を盟主とする東アジアの秩序からの離脱によって国内に異民族を抱える体裁をとる必要がなくなったこと、
直前の入朝で蝦夷と律令国家との対立関係が表面化したこと、
この年7月に始まる38年戦争との関連など、
が推測される。

いずれにしても、蝦夷との緊張関係が高まる中で行われた政策転換であり、この半年後、海道蝦夷は蜂起する。

唐との関連では、宝亀9年に唐の使者が110年ぶりに来日した際、儀式の護衛兵とするために、入朝を停止した蝦夷を陸奥・出羽に命じて出させる(『続日本紀』宝亀九年十二月戊戌条)。

唐使は翌年4月に入京。
蝦夷20人は騎兵とともに将軍に率いられ、平城京の羅城門外で唐使を出迎える(宝亀十年四月庚子条)。
唐の天子の代理人の前では、日本の天皇は夷狄の服属を受ける有徳の君主を演じている。
斉明5年(659)の遣唐使が、唐の皇帝に蝦夷を見せ、「蝦夷国」は東北にあって、毎年朝廷に朝貢していると誇らしげに述べている(『日本書紀』斉明五年七月戊寅条所引伊吉連博徳書いきのむらじはかとこのふみ)。
*
5月17日
・新羅からの漂着者に対し、帰化の意思の有無を確認し、意思の明瞭でない者は基本的に全て追い返すよう指示が出る。
新羅国内の混乱は、恵恭王時代(765~780)に目立つようになり、日本に漂着して帰化を求める者が現れる。このため、この日付けで官符(『類聚三代格』巻18)が出される。
*
7月23日
・征夷実施の決定
この月以前に陸奥に赴任している大伴駿河麻呂が征夷実施を申請。この日、光仁天皇はそれに許可を与える。

陸奥按察使兼守鎮守将軍正四位下大伴宿禰駿河麻呂らに勅して曰く、
「将軍ら、前日征夷の便宜を奏するに、『あるいは伐つべからず、あるいは必ず伐つべしと以為(おも)へり』と。
朕、その民を労(いたわ)らむが為に、且(しばら)く含弘(がんこう)を事とせり。
今、将軍らの奏を得るに、蠢(うごめ)ける彼の蝦狄、野心を俊(あらた)めず、屡(しばしば)辺境を侵して、敢へて王命を非(そし)ると。
事巳(や)むことを獲ず。一(もつぱ)ら来奏に依りて、宜しく早やかに軍を発して、時に応じて討滅すべし」
と。
(『続日本紀』宝亀五年七月庚申条)。

鎮守将軍大伴駿河麻呂らは、征夷の実施について「前日」(過去のある日)と「今」の二度にわたって光仁天皇に奏上していた。
最初は現地官人の間にある和戦両様の考え方を述べ、征夷を行うべきか否か、天皇の判断を求めた。天皇は人民をいたわることが大切と考え、しばらく「含弘」(広大な徳)によって征夷を行わないことに決定した。
しかし今回の駿河麻呂らの奏上によれば、蝦夷は「野心」(服従しない荒々しい心)を改めず、しばしば辺境を侵し、敢えて天皇の命令を拒んでいるという。そこで天皇は、征夷もやむなしと判断、奏上の通りに軍を発し、蝦夷を討ち滅ぼすことを許可するのである。
征夷を正当化する律令国家の論理。
*
7月25日
・桃生城襲撃事件(38年戦争の発端)
蝦夷征討を命じた23日の勅命が陸奥に届く前の25日付けで、陸奥国の海沿いに住む蝦夷(海道蝦夷)が桃生(ものう)城を攻撃した報告が朝廷に届く。
国家側の戦争準備に対して蝦夷側が先手を打って攻撃に出た

陸奥国言す、
「海道の蝦夷、忽ちに徒衆を発して、橋を焚(や)き道を塞ぎて、既に往来を絶つ。
桃生城を侵して、その西郭を敗る。
鎮守の兵、勢支ふること能はず。国司事を量りて軍を興してこれを討つ。
但し未だその相戦ひて殺傷する所を知らず」
と。
(『続日本紀』宝亀五年七月壬戌条)。

(陸奥国の海道蝦夷が、突然蜂起して、橋を焼いて道を塞ぎ、交通を遮断した。そして桃生(ものう)城に侵攻して、その「西郭」を破った。桃生城の常備兵が防戦したが及ばず、国司が状況を判断し、軍を発してこれを討ったが、まだこの戦いで殺傷された人数はわからないという。)

海道蝦夷とは、北上川下流域から南三陸沿岸にかけて勢力を持つ蝦夷集団で、神亀元年(七二四) にも反乱を起こしている。桃生城はその支配のために置かれた城柵である。

この時桃生城が炎上したことは、桃生城跡の発掘調査で確かめられており、「西郭」にあたるとみられる西の区画も見つかっている。また東の区画にある政庁跡は火災で全焼しており、蝦夷の攻撃の激しさを物語っている。

■38年戦争の開始
古代の東北は、宝亀5年7月から本格的な征夷の時代に突入する。
この時期の征夷は、計画だけで終わったものを含めると10回を数え、光仁・桓武天皇の時代を中心に、嵯峨天皇の弘仁2年末まで、38年間にわたって執拗に繰り返される。

弘仁2年の征夷終結にあたって、征夷将軍文室綿麻呂が「宝亀五年から当年に至るまでの三十八年間、国境を侵す敵がしばしば動き、警備が絶えることはなかった」と述べているように、宝亀5年から弘仁2年までの38年間を征夷の時代とする認識は当時から存在した(『日本後紀』弘仁二年閏十二月辛丑条)。

●武力衝突の要因
直接の原因は、天宝宝字元年以後、藤原仲麻呂および称徳・道鏡政権下で行われた積極的な東北政策が、蝦夷の反発と抵抗を招いたことである。

桃生城・雄勝城・伊治城の造営と、柵戸の移住による桃生郡、雄勝郡と平鹿郡、栗原郡の新設は、現地の蝦夷との間にさまざまな摩擦を引き起こす。
桃生城・伊治城がともに蝦夷の攻撃を受け、雄勝郡・平鹿郡の移民も蝦夷に襲撃されているように、8世紀後半に置かれた城柵や郡はいずれも蝦夷の攻撃対象となっている。
これは律令国家の強圧的な支配拡大政策に対する抵抗といえる。

また陸奥国では、8世紀前半に置かれた黒川以北十郡と、それより北の栗原・桃生以北の諸郡との間には、古墳の築造、アイヌ語系地名の分布などに明確な差異があり、出羽国でも雄勝郡以北にアイヌ語系地名が濃厚に分布している。
このような政治的・文化的な差異が、栗原・桃生・雄勝方面に国家の支配が及んだ時に蝦夷の大きな抵抗を受けた一因と考えられている。

また、蝦夷社会が律令国家に対して組織的な抵抗を行い得るほど成長しつつあったことも条件の一つである。
蝦夷はもともと弓術・馬術に優れ、しばしば「一を以て千に当たる」(『続日本紀』天応元年六月戊子条・『日本三代実録』貞観十一年十二月五日戊子条など)と言われるほどの強い武力を持っていたが、彼らは部族集団ごとに行動しており、蝦夷社会全体としては統合・組織化されていなかった。
しかし奈良時代後半になると、律令国家との諸関係や征夷への抵抗を通じて、次第に大同団結するようになり、桓武朝には阿弖流為(あてるい)というカリスマ的指導者まで出現する。
*
8月2日
・予想外の事態に直面した光仁天皇は、この日、坂東8ヶ国に対し、陸奥国が緊急事態を告げることがあった場合、国の大小に応じて2千人以下500人以上の援兵を徴発し、現地に向かわせるよう命じる(『続日本紀』宝亀五年八月己巳条)。
律令規定では、20人以上の兵を動かす際には、事前に天皇の許可が必要(軍防令差兵条)だが、事後報告で構わないから早く陸奥を救援せよと命令。
*
8月24日
・鎮守将軍大伴駿河麻呂は、突如、征夷中止を進言。
光仁天皇はそれを「首尾異計」であるとして駿河麻呂を厳しく譴責。

退路を断たれた駿河麻呂は、1ヶ月後、海道蝦夷の拠点・陸奥国遠山村を制圧。

駿河麻呂の進言
「賊のなすところは、狗盗鼠窃(くとうそせつ、犬や鼠が物を盗むこと、こそどろ)のようなもので、時々侵略することがあっても、大した害はありません。今は草が茂っており、このような時に無理をして攻めれば、後悔しても及ばない結果となるでしょう」(『続日本紀』宝亀五年八月辛卯条)。
自ら征夷実施を申請して許可を得たのに、戦況が不利と見るや、その撤回を求めてきた。
反乱を起こした蝦夷がすでに去り、放置してもこれ以上の被害は出ないという現状認識があったものとも思われる。
*
10月4日
・海道蝦夷の拠点・陸奥国遠山村を制圧した駿河麻呂の功績を絶賛する。

陸奥国遠山村は、地これ険阻(けんそ)にして、夷俘の憑(よ)る所なり。歴代の諸、未だ嘗て進討せず。
而るに按察使大伴宿爾駿河麻呂ら、直に進みてこれを撃ち、その巣穴を覆す。
遂に窮寇(きゆうこう)をして奔亡せしめ、降(くだ)る者相望ましむ。是に於て、使を遺して宣慰して、賜ふに御服・綵帛(さいはく)を以てす。
『続日本紀』宝亀五年十月庚午(四日)条

陸奥国遠山(トホヤマ)村は、後の陸奥国登米(トヨマ)郡のこと(現在の宮城県登米(とめ)市登米町)で、桃生城から北上川を15km程北上したところにある。
歴代諸将はここを攻めあぐねていたが、駿河麻呂はこれを撃ち、「窮寇」(追いつめられた敵)は逃げ散り、降伏する者が続出したという。

天皇は使者を派遣して慰労し、御服(天皇の衣服)・綵帛(彩色した絹)を支給することにした。    
翌年11月の論功行賞では1,790人余の従軍者が叙位されていることから、おそらくこの10倍程度の軍隊を動員して攻撃をかけたと推測できる。
のちの宝亀7・8年の征夷では、軍士2万4千人に対し、約1/10にあたる2,267人が叙位されている。

この成功体験は、駿河麻呂と光仁天皇に大きな自信を与え、征夷続行となる。
*
11月10日
・陸奥国府(多賀城)に漏刻(水時計)を置き、大宰府と同様に飛駅の奏(緊急時の上申)に時刻を記すこととなる。
*
*
*

0 件のコメント: