宝亀元年(770)
8月4日
・称徳女帝(53、聖武天皇と光明子との間の子、独身)が、皇位継承に関して明確な意思表示なく没。
藤原百川(ふじわらのももかわ)・永手(ながて)・良継(よしつぐ)ら、亡き女帝の遺言だと偽って、天智天皇の孫白壁王を皇太子に迎える。
称徳の寵臣・左大臣吉備真備(78)は辞表を提出。
ある逸話
称徳天皇没後、後継天皇に関する会議。
出席者は、左大臣藤原永手、右大臣吉備真備(きびのまきび)、参議藤原宿奈麻呂(すくなまろ、良継)・参議藤原縄麻呂(ただまろ)・参議石上宅嗣(いそのかみのやかつぐ)、近衛大将藤原蔵下麻呂(くらしまろ)。
天皇候補は、
天智天皇の孫の白壁王(後の光仁天皇、62歳)、
天武天皇の孫の文室浄三(ふんやのきよみ、智努王、78歳)、
浄三の弟文室大市(おおち、大市王、67歳)の3人。
「日本紀略」によれば、参議藤原百川等が称徳天皇の偽の遺詔を作って読み上げさせ、真備たちは驚いてあきらめ、結局、白壁に決したという。
候補者はみな高齢であり、ぎりぎりの選択であった。
奈良時代の天皇は、672年の壬申の乱に勝利した天武天皇の子孫(及びその配偶者)が即位している。
その直系子孫である称徳天皇が没し、約100年続いた天武系の皇統は断絶し、代わって天智天皇の孫である白壁(のち光仁天皇)が即位することになる。
しかし、白壁の妻は、聖武天皇とその夫人県犬養広刀自(あがたいぬかいのひろとじ)の間に生まれた井上内親王で、白壁との間に他戸(おさべ)親王がまれている。
白壁の即位の真の目的は、将来、他戸親王を即位させることにあるとすれば、この時点では聖武天皇の血統を重視したことになる。
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8月10日
・蝦夷の宇漢迷公宇屈波宇(うかんめのきみくつはう)が、突然一族を率い「賊地」へ逃げ帰ったとの情報が朝廷にもたらされる。
朝廷は、直ちに陸奥国牡鹿郡出身で当時正四位上近衛中将・道嶋嶋足(みちしまのしまたり)らを現地に派遣して、事情を調べさせることとする(『続日本紀』宝亀元年八月己亥条)。
道嶋嶋足は現地の事情に詳しく、恵美押勝の乱で武勲を立てたほどの武力を持った人物。
この時の朝廷は、道嶋嶋足の派遣を迅速に決定しているから、事件の重大性をそれなりに認識できていたようである。
しかしこのころ朝廷は、重大な政治的局面を迎えており、蝦夷政策に本腰を入れて取り組める状態ではなかった。
宇漢迷公宇屈波宇は連れ戻しに来た使者に対し、「一、二の同族を率いて、必ず城柵を侵さん」と揚言したという。
宇漢迷公宇屈波宇の本拠地は、「賊地」と呼ばれていることから、この頃まだ国家の支配が及んでいない岩手県域の蝦夷と推測できる。
彼はこれ以前に国家に服属し、一族と共に陸奥国の城柵(桃生城か伊治城)に移住し、その支配を受けていたと思われる。
そこには坂東諸国から多数の移民が送り込まれており、何らかのトラブルが発生し、激怒して本拠地へ逃げ帰ったものとみられる。
(宇屈波芋が国家への服属を見限った直接の原因は不明で、この後の宇屈波字や、嶋足の調査結果も不明)
しかしこの事件は、宇屈波宇個人が起こした偶発的な事件というよりは、桃生城・伊治城の造営に代表される奈良時代後半の積極的な蝦夷政策が、このころ次第に破綻し始めていたことを象徴する事件とみるべきである。
この4年後(宝亀5年7月)には、海道蝦夷が蜂起して桃生城を攻撃し、38年間に及ぶ征夷の時代が始まる。
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8月17日
・称徳女帝を山陵に埋葬。
道鏡はこの時点でもなお即位の可能性を信じて山陵に仕えていた(『続日本紀』)。
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8月28日
・皇太子白壁王の令旨(命令)によって道鏡は造下野国薬師寺別当に左遷。
翌29日には道鏡の親族も土佐国に配流。
道鏡は2年後の4月、下野薬師寺でひっそりと没す。
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10月1日
・光仁天皇(62)即位。神護景雲4年が宝亀元年に改元される(4字年号の時代が終わる)。
奈良時代の政争をつぶさに見てきた光仁は、ひたすら酒を飲んで愚かなふりをし、政争に巻き込まれるのを避けてきたという(『続日本紀』光仁天皇即位前紀)。
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11月6日
・光仁天皇、白壁王時代以来の妻の井上内親王を皇后とする。
光仁は、井上の立后と同時に、自分の父施基(しき)親王に春日宮御宇天皇(かすがのみやあめのしたしろしめししすめらみこと)の称号を贈り、翌年母の紀橡姫(きのとちひめ)に皇太后を追贈。これは父母を天皇・皇后にしたことを意味する。
この系統観によると、天智から施基を通じて自分に至る直系の皇統があったかのように装おうとしていることになる。
光仁は、井上内親王を皇后に、他戸親王を皇太子に定めることで天武系の皇統との連続性を強調する一方で、天智直系をも標榜した。
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1 件のコメント:
奈良時代の歴史は、怨霊や白亀などでまるで小説。山部、白壁、藤原の反乱は最大のモノではないかと。とすれば本当の歴史は壬申の乱として移され残されているのではないかと疑うものです。倉西裕子著 『「記紀」はいかにして成立したか』 720年「日本紀」は 「日本書紀」と読み替えることができるのか、について論証されています。
宜しくお願いします。
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