2011年9月16日金曜日

宝亀8年(777)~9年(778) 38年戦争第1期が終る

宝亀8年(777)
この年
出羽国での蝦夷との戦闘継続。
出羽国軍は、蝦夷に敗れる局面もあるが、翌年までには一旦収束。
(宝亀7~8年は、俘囚の移配が行われているが、総じて政府軍は苦戦している)
38年戦争第1期が終る
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3月
・この月にも、陸奥の夷俘が相次いで降伏(宝亀八年三月是月条)。
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5月
・この月、相模・武蔵・下総・下野・越後国に命じ、甲(よろい)200領を「出羽国の鎮戍」(雄勝城か)に送らせる(宝亀八年五月乙亥条)。
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・鎮守副将軍紀広純は、宝亀6年9月に陸奥介を兼任し、翌7年からの志波村の征夷を主導。
この月(宝亀8年5月)、陸奥按察使に就任、名実ともに東北の軍事・行政の頂点に立つ。
さらに宝亀11年2月1日には陸奥按察使兼鎮守副将軍のまま参議を兼任。
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11月1日
・光仁天皇が病気になる。
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12月25日
・山部親王も病気になる。
3日後(28日)、井上内親王の改葬を命じ、「御墓」として厚く遇する。
天皇と皇太子の病気は井上内親王の崇りと考えられている
延暦19年(800)、井上内親王は名誉回復され、再び皇后の称号を贈られる。
光仁天皇を呪ったというのは冤罪。
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12月26日
・この日、「出羽国の蝦賊」が「叛逆」して、政府軍が不利となり、兵器に損失が出たとの記事がある(宝亀八年十二月発卯条)。
志波村の蝦夷との戦闘に関する宝亀7年5月の記事の重出の可能性があるが、「叛逆」という表現に注目すれば、出羽国内で新たに蝦夷の反乱が発生した可能性もある。
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宝亀9年(778)
6月
・この月、陸奥・出羽国司以下2,267人に論功行賞(『続日本紀』宝亀九年六月庚子条)。
叙位された2,267人のうち、『続日本紀』に名前が明記されている者は4人。
按察使の紀広純(正五位下・勲五等から従四位下・勲四等に昇叙、按案使就任は宝亀8年5月)、
鎮守権副将軍の佐伯久良麻呂(従五位上・勲七等から正五位下・勲五等)、
吉弥侯伊佐西古(きみこのいさせこ、外正六位上から外従五位下)、
伊治公呰麻呂(これはりのきみのあざまろ、第二等から外従五位下)。
吉弥侯伊佐西古と伊治公呰麻呂の二人は服属した蝦夷で、外従五位下という地方在住者としては最高位を与えられる。配下の蝦夷(俘軍)を率いて政府軍のもとで活躍したと推測できる。
叙位されない者には禄を支給し、戦死者については先例に従ってその父またはその子に位を与えている。
こうして山道蝦夷に対する初めての征夷は一旦終了。

伊治公呰麻呂(これはりのきみあざまろ)
もとは伊治城が置かれた陸奥国栗原郡付近(宮城県内陸北部、現栗原市)に勢力を持つ蝦夷の族長。
国家に協力した功績で、伊治公の姓と、第二等の蝦夷爵(えみししやく、蝦夷に授与される位)を与えられていたが、この時(宝亀9年6月)の論功行賞で、外従五位下という地方在住者としては最高位が授けられる。
呰麻呂は、俘軍(服属した蝦夷の軍)を率いて征夷戦に参加している。彼に対する破格の叙位は、彼の軍功が並々ならぬものであったことを示す。
さらに彼は、陸奥国上治(かみはり)郡の大領(郡司の長官)にも任命される(『続日本紀』宝亀十一年三月丁亥条)
次の蝦夷叛乱ではリーダーとなる。
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10月23日
・遣唐使第三船に乗った判官小野滋野(おののしげの)が帰国。
珍しく唐朝廷の使者・孫興進(本来の使者趙宝英は途中で遭難。孫はその部下)を同行。

「続日本紀」によると、日本側は使者同行を避けようとしたが、唐の皇帝代宗が突然提案し、強硬に主張したため仕方なく連れてきてしまった、という。
110年ぶりの唐の使者の来日。

日本の律令では、唐は新羅等と並んで外蕃(げばん、中華帝国の周辺にあり、これに従属する国・地域)とされている。
唐の律令が、唐が中華で周りはみな外蕃であるという前提で作られており、日本はその思想をそのまま受け入れて大宝・養老律令を編纂したため、唐も外蕃の一つになっている。
ところが実際には、日本は唐に対して朝貢をする国であり、それを知っているのは政府の上層部だけである。

唐の使者の応接の仕方が問題
使者は皇帝が派遣したものだから、皇帝の代理として天皇に接しようとする。従って、天皇は御座から降りて北面し、南面した使者に相対することを強いられることになるはずである。

天皇と唐の使者との対面は、翌年(宝亀10年)5月3日。
迎接儀礼についての議論の結果、反対派はいたものの、石上宅嗣(いそのかみのやかつぐ)らの「天皇の降座やむなし」という意見が結論となったようだ。

儀式の護衛兵とするために、入朝を停止している蝦夷を陸奥・出羽国に命じて出させる(『続日本紀』宝亀九年十二月戊戌条)。

唐使者は翌年4月に入京、蝦夷20人は騎兵とともに将軍に率いられ、平城京の羅城門外で唐使を出迎える(宝亀十年四月庚子条)。天皇は、唐の皇帝の代理人の前では夷狄の服属を受ける有徳の君主を演じなければならない。

斉明5年(659)の遣唐使が、唐の皇帝に蝦夷を見せ、「蝦夷国」は東北にあって、毎年朝廷に朝貢していると誇らしげに述べている(『日本書紀』斉明五年七月戊寅条所引伊吉連博徳書いきのむらじはかとこのふみ)。    
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12月27日
・藤原良継、没。光仁擁立の功労者。
娘の乙牟漏は山部王(桓武天皇)との間に安殿親王(平城天皇)・神野親王(嵯峨天皇)・高志内親王を生む。
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