2011年9月23日金曜日

明治36年(1903)4月30日 「東京朝日」主筆池辺三山、開戦辞せずと強硬論を唱える

明治36年(1903)4月30日
・「東京朝日」主筆池辺三山、この日の社説で開戦辞せずとして強硬論を唱える。

「英国のアバーヂーン内閣は最も平和を愛好するの内閣と称せられたりき。殊にアバーヂーンは最も露国と親善なる交渉を維持せんことを希望したりき。而も内外の形勢は遂に此の平和的内閣を馳りてクリミヤの大戦を敢てするに至らしめぬ。
日本は固より露国の条約履行(露清間の満州還付条約)を希望するの外他意なしと雖も、其利益を防衛し東洋の平和を維持するの必要に余儀なくせらるゝあらば、当年アバーヂーン内閣に倣はざらんと欲するも得じ」。

「アバーヂーン」:
クリミア戦争でロシアと戦った英国の首相。
三山は英国政府を引き合いに出して、日本政府に「決意」を迫る。
三山が開戦論に踏み込んだ背景には、秘かにロシアが清国に新たな要求をしているとの情報があった。
ロシア側の要求内容は機密事項であるが、3月下旬頃から、北京、天津、牛荘(営口)、漢城方面などの「朝日」特派員から、続々とロシアの動向を知らせる特電が届いている。
なかでも北京特派員の牧放浪は、ほぼその全容を明らかにした。
7ヶ条からなるロシアの要求は、事実上、満州をロシアの従属地域とするもので、清国政府は要求を拒絶した。
これを伝える北京特電は、「満州問題に就き慶親王は日英両国公使の忠告に随ひ露国の要求を拒絶する時、露公使と頗る激論に及びたり」とあった。

ロシアは満州還付条約に基づく36年4月2日の第2期撤兵期日を無視し、鴨緑江沿岸に兵力を集中し、河口の韓国領側に軍事施設を構築し、清国に新しい密約を迫っている。
三山は、「ロシアが清国に返した領土は、どんな形式でも他国に譲与してはならない」「ロシア人が満州占領中に獲得した各種の権利は撤兵後も有効である」との清露の新密約を知り、4月23日、桂太郎首相を訪ね決意を質す。

池辺三山:
池辺吉太郎。父吉十郎は熊本の細川家譜代の藩士、維新後、私塾を開く。
西南の役で西郷隆盛軍の熊本隊隊長となり、熊本城攻めで負傷、官軍に捕えられ斬られる。この時三山14歳。

18歳で上京、慶応義塾に学び、21歳で熊本県出身者の奨学機関の有斐学舎舎監となる。
条約改正反対運動に奔走、「山梨日日新聞」論説を書き、言論界に乗り出す。
そして、東海散士(柴四郎)の知遇を得て、21年12月、主筆柴・編集長三山の「経世評論」(月2回発行)を大阪で創刊。
1年半程で雑誌は経済的に行き詰まるが、三宅雪嶺、志賀重昂、陸羯南、柴四朗とら一流言論人に伍して、若い三山も書く。
当時「東雲新聞」主筆中江兆民は、同紙上で三山の文章に期待を寄せている。

帰京し陸羯南の新聞「日本」の客員寄稿家となり、不平等条約改正論を軸とする「日本外政論」を社説欄に連載。
25年5月、旧藩主細川護久にパリ留学中の世子護成の補導役を依頼されて渡仏、28年6月帰国までパリのカルチェラタンの下宿を本拠としてヨーロッパの動静に耳目を働かせる。
カルチェラタンのカフェには、「ルマタン」などパリの新聞、「タイムズ」などの英国の新聞、ローマの仏字新聞、アメリカの新聞などが置いてあり、それらを精読するのが三山の日課。滞仏2年で、仏字新聞が自由に読みこなせるようになった頃、「日本」に送稿始める。
27年7月、細川護成の従者としてドイツ、北欧諸国、ロシア、中近東へ大旅行。

パリに帰る前から、日清戦争に対するヨーロッパの反応を「巴里通信」として「日本」に送る。
第1回は、「干渉将に来らんとす」(同年11月18日掲載)で、新聞記事から分析した英仏の「東洋の戦い」への介入の動きを伝える。
「巴里通信」は20数回に及び、「日本」は三山が普通郵便で送る1ヶ月遅れの通信を「社説」として掲載。

東洋艦隊の根拠地を中国に求める英国、中国での鉄道敷設権を得たい仏独、米華銀行を創立したい米国、かつて英仏が同盟して中国を陥入れた時、仲裁役を引受けて黒竜江以北幾千里の地を得たロシアは、シベリア鉄道の工事が進むに従い、ウラジオストクへの大迂回を避けるため満州の地を得たくなるのは当然である、と三山は書く。

帰国した三山は東海散士から「朝日新聞」を紹介され、内閣書記官長になる高橋健三が、「巴里通信」の三山を「大阪朝日」主筆の後任に推薦。

東海散士はT鉄崑崙兄」として三山に手紙を書く。
「一、朝日社主は三山の大阪に来るのを待っている、
一、東京に住むのは村山(龍平)と相談、
一、報酬は120円位、
一、村山は俗才だが上野(理一)は正直な君子だから、折合が難しいということはない」
などで、三山は全てを了承。

当時月給は、村山龍平150円、共同経営者上野理一110、「東京朝日」主筆格西村天囚65円、探訪記者平均23円。尋常小学校正教員平均給12円1銭5厘の時代。

29年12月三山(32)「大阪朝日」入社。
30年12月、三山は西村天囚が長期中国出張をするため「東京朝日」主筆を兼ね、「大阪朝日」論説は、後輩の鳥居素川に委ねて上京、やがて仕事を「東京朝日」主筆に絞る。
31年1月17回、2月14回、3月17回の「東朝」社説を書く。

三山社説の主題を構成する第一の要素はナショナリズムの高揚
「国粋派」と云われる言論を陸羯南の新聞「日本」と三宅雪嶺の雑誌「日本人」が組織し、三山はこの「国粋派」論客の流れの中にある。
第二の要素は、帝国主義列強の対アジア攻勢への対処
日本が清国に遼東半島を還付した3年後(1898年)には、ドイツの膠州湾租借、ロシアの旅順・大連租借、イギリスの九竜半島・威海衛租借、フランスの広州湾租借と相次ぎ、中国の要衝は次々に侵蝕されゆく。
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