昭和16年(1941)
9月21日
・九月念一 日曜日 晴。秋蝉再び啼く。終日困臥。バルビウツス著ゾラの評傳をよむ。
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9月22日
九月念二。晴。土州橋に往く。
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9月23日
九月念三。晴れて風甚冷なり。
彼岸の中日には牡丹餅作るぺしと、金兵衛のかみさんより昨夜電話にてはなしのありたれば、燈刻芝ロの店に往く。歌川氏も来合せたり。世人は早く既に牡丹餅も柏餅も皆忘れたるが如し。
東京には生れながらの都會人年と共にすくなくなりて、都會生活即ち町ずまひの興趣は今や全くその跡を断ちたり。
これは戦争のためのみには非らざるべし。戦争なく平和の世にても生活に興趣なくなることは同じなるぺし。
昭和七八年頃戦争前の世の有様を回顧すれば、東京の生活の荒廃は戦争の有無に関せざる事盖し言ふを俟ざる所なるぺし。
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9月26日
・九月念六。薄く晴れて淋しき日なり。
夜浅草の煮豆屋に豆買ひに行きしに豆類は毎日何キロときまりたる制限あるが為正午頃には賣切になるとの事なり。今朝に飰してかへる。
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9月28日
九月念八。秋陰暗淡薄暮の如し。
午後小石川を歩す。傳通院前電車通より金富町の小径に入る。幼時紙鳶あげて遊びし横町なり。一間程なる道幅むかしのまゝなるべく今見ればその狭苦しきこと怪しまるゝばかりなり。舊宅裏門前の坂を下り表門前を過ぎて金剛寺坂の中腹に出づ。暫く佇立みて舊宅の老樹を仰ぎ眺め居たりしが、其間に通行の人全く絶えあたりの静けさ却てむかしに優りたり。坂を上り左手の小径より鶯谷を見おろすに多福院の本堂のみむかしの如くなれど、懸崖の樹木竹林大方きり払れ新邸普請中のところ二三箇處もあり。昭和十一二年頃來り見し時に比すれば更に荒れすさみたり。牛込赤城の方を眺むる景色も樹木いよいよ少くセメントの家屋のきた(ママ)らしさ目に立ちて、去大正十二年地震後に來り見し時の面影はなし。・・・・・・
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9月30日
九月三十日。雨暮方に至りて歇む。銀座に飰す。
この頃飲食店に入りで直に目につくものは四十五十位の老婆三四人打連れ仔細らしく談じ合へる事なり。戦争前には見られぬ事なり。國民服とやら着たる中年の男の四五人打寄り何やら届書らしき紙を打ひろげ飲み食ひしつゝ談合するは珍らしからず。
電車の中のみならず銀座丸ノ内あたりにでは街の角にて手を動して立談するものもあり。戦國の奇風とも言ふべきにや。
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荷風は、
「東京の生活の荒廃は戦争の有無に関せざる事盖し言ふを俟ざる所なるぺし。」
と言う。
しかもトリガーは、「牡丹餅」だった。
とにかく、荷風は、何もかも戦争が悪いとして、何でも戦争のせいにしている訳ではない。
明治にあっては江戸を想い、江戸から明治を撃つ。
大震災以降は「われは明治の児なれば・・・」と言って、時には明治から「いま」を撃つ、そんなメンタリティの持ち主なのだ。
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60歳を過ぎて、幼時を過ごした「舊宅」あたりを歩く。
「景色も樹木いよいよ少くセメントの家屋のきた(ママ)らしさ目に立ちて」とぼやいている。
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「★永井荷風インデックス」 をご参照ください。
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