9月9日のテーマは「論拠示せぬ首相交代劇」とあった。
菅前首相を降ろそうとする「勢力」の話題から、フィンランドの放射性廃棄物の地下処分場の話題に移る。
以下、赤川さんの文章をご紹介。
前半の三分の一ほどは省略させていただく。
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・・・・・(略)・・・・・・
菅首相から野田首相へ、民主党政権で早くも3人めの首相誕生となった。それにしても、菅さんほどマスコミに嫌われた首相も珍しいだろう。どの新聞の社説もコラムも「早く辞めろ」の大合唱だった。
しかし、どの記事を読んでも、私には菅さんがなぜ辞めなければならないのか、分からなかった。辞めたら何が良くなるのか、どこにも書かれていなかった。中には論説委員の署名入りのコラムなのに、冷静な批判とは程遠く、ほとんど感情的な罵倒に近いものさえあった。
ここまでマスコミが感情的になるのは、「本人が辞めると言ったんだから辞めろ」という以外の、筋道を立てた論拠が示せないからだ。経団連の米倉弘昌会長が何とか菅さんを辞めさせようとくり返し発言していたのを聞くと、結局、電力会社に嫌われたから辞めなければならなかったのではないかと思える。
この首相交代劇で、「脱原発」の勢いにはブレーキがかかることになるだろう。そうさせない覚悟が、今のマスコミにあるのだろうか。
フィンランドの地底深く造られた高レベル放射性廃棄物の最終処分場のドキュメンタリーを見ると、感心するより呆(あき)れるより、ブラックジョークとしか受け止められない。
施設がいっぱいになったらコンクリートでふさいで、10万年は大丈夫だという。
人類の歴史は古代文明から数えても5千年くらいのものだ。ツタンカーメンだって、ピラミッドは永遠だと思っていただろう。
「10万年は大丈夫」と言う科学者は無責任である。
むしろ、「10万年たっても、放射能は危険だ」ということこそ強調されなくてはならない。
私のような素人が見ても、あんな巨大な地底施設を造るくらいなら、その莫大(ばくだい)な費用で新エネルギーの開発を進めた方がよほど現実的である。
自然エネルギーを、「コストが高い」とか「安定供給できない」と批判する科学者は、放射性廃棄物を10万年保存できる方法を考える方がいかに大変かを認識すべきだ。
コストや安定供給の問題は人間の知恵で何とかなる範囲内だろう。
今の企業に遠慮して、将来の子供たちを危険にさらすことは許されない。
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この「フィンランドの放射性廃棄物の地下処分場」については、「原発を終らせる」(岩波新書)より、以下でご紹介する。
まず、「原発は不完全な技術」(上澤千尋)より
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使用済燃料の直接処分も含めて、原発から出てくる高レベル核廃棄物の最終処分の候補地が決まっているのはフィンランドのオンカロだけである。
一〇万年間の監視が必要な、危険な核廃棄物を安全に保管できるのか、そこに核廃棄物が存在することをどうやって後の世代に知らせることができるのか、だれも答えを持っていない。
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次に、「原発のない新しい時代に踏みだそう」(山口幸夫)より
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一〇万年後の不安
「オンカロ」(ONKALO)という聞きなれない言葉がある。
フィンランドにつくられつつある地下岩盤特性調査施設のことだが、「隠された場所」という意味があるらしい。
オンカロは首都ヘルシンキの北西二五〇キロ、バルト海のボスニア湾沿岸に近いオルキルオト島にある。世界でただ一つの放射性廃棄物の地下処分場の予定地だ。
工事は二〇〇四年に始まった。地下五二〇メートルまで掘る計画で、二〇一一年四月現在、四四〇メートルに達した。
操業開始は二〇二〇年、一〇〇年後の二一二〇年まで使用する予定だ。
その後、厳重に封鎖される。
一〇万年後までの安全を見込んでいるという。
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(略)
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原発を運転すると、燃料のウランから、長短さまざまの半減期を持つ放射性物質がたくさんできてしまう。
この後始末がじつに厄介なのである。
原発で使い終わった燃料の中の放射能の害を無視してもよい状態になるまで、きちんと保管・管理しておかなければならない。
ヨーロッパでは、この「待ち時間」を一〇万年とみなしている。
オンカロはこの目的のためにつくられつつある。
絶対に触れないでください
二〇〇九年に制作された国際共同ドキュメンタリー作品『一〇〇、〇〇〇年後の安全』を見た。
原題は、「Into Eternity」である。「永遠の中へ」という意味だろう。
オルキルオト島の一八億年前に形成されたという頑丈な地層の中に、一大近代都市に似た、しかし殺伐とした地下構造物が建設されている現場が映し出される。地上では、雪の降り積もった針葉樹林の中をゆったりと歩むヘラジカが姿をみせる。絵に描いたような北欧の世界だ。
まさか、その地下に、危険このうえもない放射性廃棄物が閉じ込められているとは。まさに「隠された場所」(オンカロ)である。
一〇万年後までの安全を確保するというが、その頃、人類は存在しているのだろうか。
仮に、人類が存在したとしても、標識に書かれた警告の言葉は通じるだろうか。
ひょっとして、そのころの誰かが、ここを発掘するかもしれない。
監督のマイケル・マドセンは、「未来のみなさんへ」と題するメッセージで映像をしめくくっている。
未来のみなさんへ
ここは二一世紀に処分された放射性廃棄物の埋蔵場所です。
決して入らないでください。
あなたを守るため、地中奥深くに埋めました。
放射性物質は大変危険です。透明で、においもありません。
絶対に触れないでください。
地上に戻って、我々より良い世界を作ってください。
幸運を。
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「何とかなるだろう」の果て
日本で原子力研究が始まったとき、放射性廃棄物はどう考えられていたのだろうか。
わたしが原子力を学んだのは一九五九年だが、そのときからずっと疑問に思ってきた。
伏見康治氏(当時大阪大学教授)は学術会議に茅(誠司、東京大学教授)・伏見提案を示して、慎重だった学者たちを原子力研究に踏み切らせたご本人だが、その伏見氏に公開の席で問うたことがある。一九八三年のことだ。
私の質問を受けて伏見氏はしばらく沈黙していたが、
「じつは、当時、放射性廃棄物がこれほど深刻なものになろうとは考えていなかった。その後、たいへんな問題だと気づかされたのは、この会場にいるあなた方、若い科学者たちのおかげだ」
というものだった。
正直な告白だとは思ったが、しかし、その責任はどうなのか、納得できるものではなかった。
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原発を終わらせる (岩波新書)
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