3月
・「陸奥の蝦賊騒動して、夏より秋に渉れり。民皆塞を保ちて、田疇(でんちゆう)荒廃せり」との理由で、陸奥国の当年の課役・田租が免除される(宝亀六年三月丙辰条)。
「塞」は城柵を指し、柵戸を含めた陸奥国の民衆が城柵の維持に駆り出されたため、田畑が荒れたということ。
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5月
・この月、京庫の綿1万屯および甲斐・相模両国の綿5千屯を陸奥国に送り、襖(あお、綿製の甲胃、防寒機能も持つ)を作らせる。
次の征夷に向けた準備の一環。
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6月27日
・調庸を責納する際に、国司の目(さかん、第四等官)以上1人を専当国司(せんとうこくし)として上京させよ、との命令がでる(『類聚三代格』巻12)。
天応元年(781)8月28日格(きやく)によって、専当国司は、予めその名簿を中央に届け出よ、とされる(『類聚三代格』巻12)。
専当国司が調庸納入の直接担当者であるとして、中央でもそれを把握する意図がみえる。
国司は元来四等官制(守(かみ)・介(すけ)・掾(じよう)・目(さかん)の職階)からなり、四等官は連帯責任制を採っている。公務上の過失を犯した場合は、直接の責任者が最も重く処罰されるが、その事件との関わり方に比例して連帯責任で処罰を受ける(「公坐相連(こうざそうれん)」)。
段階的に逓減して科罰することは「節級連坐」という。
徴税が円滑に行かずに違期・未進となった場合、「国郡は、みな長官をもって首(しゆ)と為し、佐職(さしよく、次官以下)は節級連坐せよ」(戸婚律輸課税物違期条)と規定されているように、長官たる守が一番責任が重く、以下は段階的に小さくなる責任を負っているが、ともかく処罰は連帯責任制である。
しかし、専当国司制という考え方は、このような連帯責任制度と矛盾してくることになる。
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9月
・鎮守副将軍紀広純(きのひろずみ)、陸奥介を兼任し、翌年からの志波村の征夷を主導。
宝亀8年5月には陸奥按察使に就任し、名実ともに東北の軍事・行政の頂点に立つ。
さらに宝亀11年2月1日には陸奥按察使兼鎮守副将軍のまま参議を兼任。
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9月27日
・大伴駿河麻呂、参議に任じられる(『公卿補任』宝亀6年条)。
参議は四位程度の位階を持つ貴族が任命される中央政府の議政官(公卿)。
陸奥の官人がこれを兼任した前例は、大野東人(あずまひと)・藤原朝猟(あさかり)がある(駿河麻呂は東人・朝猟に並ぶ地位を与えられた)。
議政官を兼任させることによって、行軍を指揮する官人を権威づけるための措置。
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11月
・この月の論功行賞。
大伴駿河麻呂は「朝委を奉りて身命を顧みず、叛賊を討治して懐柔帰服せしむ。勤労の重きこと、実に嘉尚すべし」と讃えられ、正四位下から正四位上勲三等に昇叙。
鎮守副将軍の紀広純(きのひろずみ)が従五位上から正五位下勲五等、百済王俊哲(くだらのこにきししゆんてつ、鎮守軍監か)が勲六等を与えられる(『続日本紀』宝亀六年十一月乙巳条)。
論功行賞にはは、天皇の使者が陸奥国(陸奥国府である多賀城の政庁)に出向いて、詔を読み上げる形で行われる。
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宝亀7年(776)
2月
・陸奥国、4月上旬に軍士2万人を発して「山海二道(山道と海道)の賊」を討つことを光仁天皇に進言。
天皇は直ちににこれを承認、出羽国に対し軍士4千人の徴発を命じ、雄勝を経由して西側から山道蝦夷を攻めるよう指示(『続日本紀』宝亀七年二月甲子条)。
山道蝦夷が目標となるのは、天平9年(737)の大野東人の遠征以来初めて。
山道蝦夷とは、本来は宮城県北部の内陸部から北の蝦夷集団をいうが、この段階では主に胆沢・志波あたりの北上盆地の蝦夷のこと。
大伴駿河麻呂は、遠山村制圧の勢いに乗って、さらに海道蝦夷の掃討を図り、その背後に勢力を持つ山道蝦夷も攻撃しようと考えた。
光仁天皇もこれを了承し、陸奥の軍は南側から、出羽の軍は西側から、それぞれ山道蝦夷を攻めるように指示を出した。
陸奥国1国で軍士2万人は前例のない規模の軍隊で、これ以前では天平9年の大野東人の遠征で陸奥国の兵5千人を動員した程度。
出羽の場合も、天平9年の遠征で出した兵は500人で、この年の動員4千人がいかに膨大であるかがわかる。出羽国の兵力は一旦雄勝城に集め、そこから現在の国道107号線のルートで北上盆地に入る計画であったと思われる。
これ以後、攻撃の重点は海道蝦夷から山道蝦夷へと移ってゆく。
城柵や郡が置かれ、国家の支配が及んでいた現在の宮城県北部から、国家が直接踏み込んだことのない岩手県域へ、軍隊を送り込むことになる。
胆沢・志波の蝦夷集団は強力であり、そのために陸奥・出羽合わせ2万4千人という大規模軍隊を動員した。
しかし、この段階では、中央政府も現地官人(大伴駿河麻呂・紀広純ら)も、事態を楽観視している。
この地域の蝦夷が制圧されるのは、桓武朝の3回の征夷を経た延暦20年(801)のことであり、それには東国の兵力を中心とする4~10万人もの大規模な征夷軍を繰り返し動員する必要があった。
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4月
・新たな征夷作戦は、予定通りこの頃始まる。
政府軍は予想外の苦戦。
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5月2日
・この日、「出羽国志波村の賊、叛逆し、国(出羽国)と相戦ふ。官軍利あらず」との報告を受け、政府は下総・下野・常陸国の騎兵を徴発し(人数不明)、現地に向かわせる(『続日本紀』宝亀七年五月戊子条)。
当初は陸奥国軍士2万、出羽国軍士4千を派遣するが、予想外の苦戦に、他国から援軍を送ることになる。
「出羽国志波村」は、後の陸奥国志波郡(岩手県盛岡市および紫波郡)にあたる地域。
なぜ「出羽国志波村」と表記されているか。
①「出羽国」の下に「言」の一字が脱落しているとみる解釈。「出羽国言(もう)す、志波村の賊、叛逆し・・・」という文ではないかという説。しかし、『続日本紀』の諸写本にはどれも「言」の文字があるものはない。
②当時の志波村は、陸奥国ではなく出羽国の管轄下にあったとみる解釈。蝦夷村の管轄は、その蝦夷集団が陸奥国と出羽国のどちらに朝貢するかによって決まると推定されるので、志波村が出羽国の管轄下にあった可能性が考えられる。志波村は、当初は出羽国雄勝城の管轄であったという見解。
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5月12日
・政府は近江介の佐伯久長麻呂(くらまろ)を鎮守権副将軍に任じ、出羽国に派遣(『続日本紀』宝亀七年五月戊戌条)。
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7月7日
・光仁天皇の期待と、武門の家の誇りを背負って蝦夷政策に邁進していた大伴駿河麻呂が陸奥で没す。
光仁天皇はこの日、駿河麻呂に従三位を追贈し、絁(あしぎぬ)30匹・布100端を家族に贈る〈『続日本紀』宝亀七年七月壬辰条)。
『公卿補任』宝亀7年条は3月4日没、4月3日贈位としており、これが正しければ、駿河麻呂は山道蝦夷との戦闘以前に没していたことになる。
光仁天皇は、政務・儀式の場である平城宮の太政官院(朝堂院)に、右大弁石川豊人を遣わして贈位の旨を宣下し〈『公卿補任』同条)、駿河麻呂に対する特別な配慮が窺える。
大伴駿河麻呂の没後は、紀広純がしばらく陸奥介兼鎮守副将軍のまま東北政策を主導する。
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7月14日
・この日、安房・上総・下総・常陸4国の船50隻を「和市」(わし、民間価格で買い上げる)して、陸奥国に配備(『続日本紀』宝亀七年七月己亥条)。北上川の水運利用のため。
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9月
・胆沢、志波の俘囚の移配の記事
この年9月、陸奥国の俘囚395人が大宰府管内諸国に、11月には出羽国の俘囚358人が大宰府および讃岐国に移配され、78人が在京の諸司および参議以上の議政官に「賤」として与えられる(宝亀七年九月丁卯条・11月癸未条)。**一部11月条参照
陸奥国の俘囚は胆沢の蝦夷、出羽国の俘囚は志波村の蝦夷が捕虜になったもの。
胆沢・志波の蝦夷は、この年の戦闘を通じて831人の同胞を国家側に奪われたことになる。
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11月
・陸奥国が軍3千を発し「胆沢の賊」を攻める(宝亀七年十一月庚辰条)。
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・・出羽国の俘囚78人が、諸司および参議以上の議政官に「班賜」されて「賤(せん=奴婢)」となっている(『続日本紀』宝亀七年十一月癸未条)。「班(わか)ち賜う」とは、天皇が与える意味で、本来は光仁天皇に対して献上された俘虜であったか。
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