永禄8年(1565)
4月
・宣教師ルイス・フロイス、上洛。室町将軍屋敷見学。
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・家康(24)、渥美郡東観音寺に諸役を免除。
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・メキシコからのレガスピ司令官のスペイン艦隊、セブ島を征服。
スペインによるフィリピン支配開始(~1898年)。
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4月15日
・山科言継、四条道場(金蓮寺、四条京極付近)法談聴聞に参詣するが、あまりの群集のため法談の席に近寄れず、やむなく方丈の霊仏を拝むことで我慢せねばならなかった。
「貴賎の群集、目を驚かすものなり」(「言継卿記」同日条)と書く。
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4月17日
・毛利軍、富田月山城(島根県能義郡広瀬町)総攻撃を開始(輝元初陣)。
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4月26日
・武田信玄、和田城に籠城する金丸若狭守・和田業繁宛て書状で、敵地よりの目代を捕えること、和田城後詰めに山宮氏を送ると伝える。
この年5~8月、上杉謙信の和田城奪還のための攻撃は激しいが、武田方は守り切る。
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4月28日
・毛利軍、星上に尼子義久と戦う。
以後、包囲持久戦(兵糧攻め)をとる。
海・陸からの兵糧搬入路遮断のため伯耆・因幡の属城を落とす。
月山そばの飯梨川(富田川)流域穀倉地で稲薙・麦薙を強行。
また、篭城城兵をおびき出す陽動作戦を展開。
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5月
・家康(24)、長仙寺に寺領を安堵。
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・備中・三村家親、美作に出陣。三星城(後藤勝基)を攻めるが、攻めあぐね兵を引く。
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・フロイスを京に送り届けたアルメイダ、堺に向かう途中、日本人キリシタンの案内で松永久秀の居城多聞山城・興福寺・春日大社・東大寺などを見物、詳細な見聞記を遺す。
次に、「十市(といち)の城」(大和磯城郡耳成村十市)・沢城を訪れる。
15日、堺で乗船し、豊後に向う。
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5月1日
・フランス、ジャン・リボー、第3次フロリダ遠征
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5月1日
・将軍義輝、三好長慶後継養子重存を義継と改名させ左京太夫に推挙。
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5月16日
・清水寺参詣と称し松永久秀(56)・三好長逸(三好三人衆)1万、入京。
松永久秀は相国寺常徳院に、三好長逸は知恩院、三好義継は革堂に止宿(「言継卿記」5月18日条)。
公家達は太刀・礼銭を持参して挨拶に訪問。
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5月19日
・将軍義輝殺害
松永久秀の子久通・三好義継(長慶の子)、幕府御所攻撃。
将軍義輝(30)殺害(槍で突き刺され壮烈な最期、自殺とも)。
義輝末弟、鹿苑寺周嵩(しゆうこう、17)謀殺。
7月28日、次弟奈良興福寺一乗院門主覚慶(のちの義昭)は幽閉されるが幕臣(兵部大輔)細川藤孝に救出。近江甲賀和田の和田惟政の保護を受け幕府再興図る
(11月21日、甲賀より江州矢嶋へ出て、近江野洲郡矢島少林寺に移動。六角氏属将矢島越中守に匿われる。永禄10年、さらに越前へ下向)。
19日辰刻(午後8時頃)、三好・松永軍、将軍邸を包囲・乱入。
将軍周辺は奉行衆数十人が警固するのみ。義輝は奮戦しもちこたえるが、午刻(午後11時頃)自刃。幕府は3度目の消滅。
母慶寿院は自殺。夫人近衛氏は捕えられ、兄で関白の前久の許に送られる。
義輝は久秀に奪われている実権回復のため、有力大名に上洛を促す御内書を発給。この動きに危機感を持った久秀が先制攻撃。
この騒乱に巻き込まれ、高山飛騨守は沢城を奪われ、故郷の村である津ノ国の高山に帰る。
日本人キリスト教徒コンスタンチノも彼の出生地、妻や親戚がいる尾張へ帰る。翌永禄9(1566)年、コンスタンチノは、故郷の花正(はなまさ、愛知県美和町)村に居を定める。1人のキリシタンもいず、自分の家に小さな祭壇を設け、デウスに祈ることを常とし、像の前で彼の隣人・親戚・友人にデウスのことを説く。
謀叛は「日本ではごくありふれたことなので、ほとんど非難を受けることはない」(ルイス・フロイス「日欧文化比較」)。
しかし、武家・公家は激しく非難。
「説くべからず、説くべからず、先(前)代未聞の儀なり」(「言継卿記」)。
「誠に恣(ホシイママ)の仕立て、前代未聞、是非なき次第、沙汰の限り」(「上杉文書」)。
「誠に御当家破滅、天下万民の愁嘆これに過ぐべからず」(「信長公記」)。
○将軍義輝の軌跡:
天文15年12月、11歳で元服して将軍職につく。
18年、江口の戦いで細川晴元方が敗北し、父義晴と共に近江坂本に落ちる。
19年5月、父義晴が坂本で没す。
21年、三好長慶と和議、京に戻るが10ヶ月で決裂、以後5年間、近江高島郡の朽木で亡命生活を送る。三好長慶政権の時代。
永禄元年11月27日、長慶と和議、京に戻る。
以後は、比較的安定した京都時代を送る。
(永禄5年、六角義賢入京により3ヶ月間山城八幡に遷移する時期がある)
永禄3年1月、長慶を管領クラスに次ぐ御相伴衆に、その子には自らの「義」の字を与え「義長」と名乗らせ御供衆に、松永久秀も御供衆にする。
4年1月、義長を御相伴衆に加え、その礼として3月30日、長慶は義輝を自邸に招く(三好亭御成)。細川の家臣として将軍の陪臣であった三好にとっては「家の面目天下の聞不可過之」といわれる出来事であった。
同年5月、長慶と長年敵対関係にあり諸国を流浪し落魄の身であった細川晴元を長慶と和解させ、摂津富田の普門寺に入れて平穏な余生を保証する。
このように、三好・松永を将軍直属の臣下にするという形で体制内にとり込み、一方で晴元・長慶の主従関係を形の上で修復させるなど、公方主導による秩序のたて直しを意欲的に行った時期である(室町幕府の復活と評価されている)。
また、朝廷との関係でいえば、弘治3年10月27日に践祚したままになっていた正親町天皇の即位式を永禄3年1月27日に行った。
さらに、群雄割拠の諸大名に対し積極的な講和の働きかけを行っている。九州では伊東・島津・大友、中国では毛利・大友、北陸・中部・関東では上杉・北条・武田等諸大名間の講和を積極的に仲介している。
こうした義輝の政治的手腕に対する評価は好意的で高い。
「天下を治むべき器用あり」(『万松院殿穴太記』)
「当御所様一段御器用御座候」(『集古文書』)
「当代京の公方様義輝と申侯は 天下の覚めてたく候」(『細川両家記』)
○「武家新御所」の経緯:
永禄元年11月入京後、義輝はひとまず相国寺に入り、12月、二条の法華寺院本覚寺に移り、1年半居住する。
妙覚寺と書かれている記録もあるが、この二寺は天文法華の乱後の再興過程で合併したといわれ、当時の人々にとっても名称の上で混乱があったと思われる。
永禄2年7月には近衛家や重臣伊勢氏からたびたび風流の集団がやって来て、見物の衆で湧き返る。
この年8月、「ふ永(武衛)之跡ニ公方しゆてん(主殿)被申候」というように、勘解由小路室町のもと斯波氏屋敷跡(コチラ)で、武家新御所の作事が始まる。柱立のために北野の地下に家並の人夫役が課されている。11月には庭の樹の進上が始まる。
3年2月には「武家御殿御堀」もかなり進行している。
6月19日、完成なった「近衛御所」へ本覚寺より移徒(わたまし)が行われる。この御所には見物人が群集するような「御馬場」があり、「石蔵」「裏御門」「西御門」があった。
そして5年後の永禄8年5月19日、三好・松永軍に攻められ、「ふけ(武家)もうちしににて あとをやき くろつち(黒土)になし候」(「お湯殿の上の日記」5月19日条)となる。
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5月19日
・オスマン軍、マルタ島包囲戦開始。
トルコ軍司令官ムスタファ・パシャ、兵力5万。
聖ヨハネ騎士団長フランス人ジャン・ド・ラ・バレッテ・パリゾン(任1557~1569)、騎士540・スペイン兵1千・傭兵やマルタ人4千。
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5月22日
・トスカナ大公コジモ・デ・メディチ、侍臣スフォルツァ・アルメニを殺害。
コジモは愛人エレオノーラに生ませた女児認知、資産分配をアルメニに相談するが、アルメニはこれをフランチェスコに通報。
1ヶ月後、コジモとエレオノーラの女児、没。
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5月23日
・松永久通・三好義継ら、一乗寺を破壊し放火。
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5月23日
・信玄、上野安中口に出陣
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「★織田信長インデックス」をご参照ください。
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