宝亀11年(780)
8月
・呰麻呂の乱の影響で秋田城停廃問題が持ち上がる。
陸奥に近い雄勝城に、出羽の兵力を集中したため、秋田城の守衛を一時停止せざるを得なくなる。
出羽鎮狄将軍の安倍家麻呂が、
「狄の志良須(しらす)・俘囚の宇奈古(うなこ)らが、『私たちは朝廷の威光をよりどころにして、久しく秋田城下に暮らしています。今この秋田城は、遂に永久に放棄されてしまうのでしょうか。もとのように兵士を交替で上番させて、再び保つことはできないでしょうか』と嘆いている」
と報告してきた。
これに対して政府は、
秋田城は久しく敵を防ぎ民を守ってきたものであるから、放棄するのは得策ではない、多少の軍士(鎮狄将軍配下の軍士)を派遣してその守衛に充て、狄・俘囚らの帰服の情を失わないようにし、「使(鎮狄使)もしくは国司一人」を秋田城の専当官として派遣すること
を命じる。
さらに
由理柵(秋田県由利本荘市)も賊の要害の地にあって、秋田への道が通じているから、そこにも兵を派遣して、相助けて防御するように、
と命じる。(『続日本紀』宝亀十一年八月乙卯条)。
出羽は、陸奥に比べて少ない兵力(1軍団)で秋田城と雄勝城の守備兵をまかなっていたが、雄勝・平鹿郡に呰麻呂の乱が波及し、雄勝城に多くの兵力を割かなければならなくなる。
その結果、秋田城の兵力が皆無となり、守備を一時停止せざるを得なくなる。
秋田城周辺には、狄の志良須・俘囚の宇奈古のような蝦夷系住民も多数居住しており、彼らのような国家に服属した蝦夷は、末服属の蝦夷から攻撃される危険に晒されている。
秋田城の常備兵が皆無となれば、それは、彼らにとっての死活問題であり、鎮狄使もしくは国司1人を秋田城の専当官とし、鎮狄将軍配下の軍士を秋田城の守備兵力に充てることになる。
ここで、秋田城とともに兵力増強の対象となっている由理柵は、秋田県由利本荘市内にあったと推定される。由理(鳥海山北麓)は、秋田よりはるかに南にあり、そこまでもが「賊の要害」(敵の攻撃を防ぐための場所)とされている。
秋田より南の地域の蝦夷も、呰麻呂の乱に連動して蜂起していることを示す。
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9月13日
・突如、藤原小黒麻呂(おぐろまろ)が正四位下を授与され、持節征東大使に任命される(征東大使の交替)。
小黒麻呂は北家房前の孫で、前年12月に参議となっていた高官。
赴任していない大使藤原継縄と、大伴益立も持節副将軍を解任されたか節刀を奪われたとみられる。
翌年5月27日には、陸奥守も大伴益立から紀古佐美に交替。
翌天応元年9月26日、大伴益立は征東副使として出発するに際し、従四位下を授けられたにもかかわらず、征討の時期を誤り、逗留して進まず、いたずらに軍粮を費やした。新たに大使藤原小黒麻呂を派遣したところ、ただちに進軍し、呰麻呂の乱で失われた諸塞(城冊)を復旧することができた。益立は進軍しなかったことを譴責され従四位下を奪われる(『続日本紀』天応元年九月辛巳条)。
益立の子の野継は、父は讒言に遭ったと訴え、承和4年(837)5月25日、父の名誉回復に成功する。益立は従四位下に復される(『続日本後紀」承和四年五月丁亥条)。
副使紀古佐美らとの間に何か確執があったのかもしれないが、事の真相は不明。
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10月22日
・征東使がこの日の奏状で、「今年は征討すべからず」と進言してくる。
29日、光仁天皇は、征東使が軍事行動を開始しないことを厳しく叱責。
「夏は草が茂っていると称し、冬は襖が乏しいと言って、さまざまに巧みな言い逃れをし、駐留したままである。兵を整え糧を準備するのも将軍の任務なのに、兵を集める前に糧を準備せず、逆に未だ城中の糧が蓄えられていないなどと言ってくる。
それなら何月何日に賊を攻めて城を取り戻すつもりなのか。
まさに今、将軍は賊に欺かれているのではないか。だから気持ちが緩んで逗留しているのであろう」と譴責。
そしてあらためて征討実施を命じ、もし今月中に「賊地」に入らないのならば、多賀・玉作(玉造)等の城で防御を加え、戦術を練るよう命じる(『続日本紀』宝亀十一年十月己未条)。
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12月
・光仁天皇が、「聞くところによると、出羽国の大室塞もまた賊の要害である」と述べ、その防御を命じる(『続日本紀』宝亀十一年十二月庚子条)。
大童塞は、天平9年(737)4月の大野東人の遠征で、出羽守田辺難波が待機していた「出羽国大童駅」の付近(山形県尾花沢市)と推定される。
8月に問題となっていた由理や大室などの出羽国の中南部の地域までが「賊の要害」となっている。
伊治公呰麻呂の乱によって、東北各地の蝦夷集団が一斉に蜂起し、その影響は広範囲かつ深刻に及んでいたことを示す。
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12月10日
・征東使(小黒麻呂ら)、兵2千を動員して「鷲座・楯座・石沢・大菅屋・柳沢等の五道」(いずれも不明)を塞ぎ、「賊」の要害を遮断したと報告。
天皇は、さらに出羽国大室塞も「賊」の要害であるから防御するように命じる
(宝亀十一年十二月庚子条)。
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12月27日
鎮守副将軍百済王俊哲らが、自分たちが「賊」に包囲され、矢も尽きた時、桃生郡と白河郡の神社11社に祈ったところ脱出できたので、これらを官社にしたいと申請し、認められる。
呰麻呂の行方は依然不明。
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