永井荷風年譜(21) 大正5年(1916)満37歳
1月12日
浅草旅籠町1丁目13番地(通称代池河岸)の米田方(米田みよを囲っていた家)に転居。
同月、『花瓶』を「三田文学」(2月まで)、『築地草』を「娯楽世界」(2月まで)に掲載。
*
代地河岸の隠れ家
新橋で芸者をしていた米田みよを身請けし、妾宅に囲う。
場所は築地や惣十郎町からは離れた隅田川べりの代地河岸(現、台東区柳橋1丁目16番地付近)。今は、総武線の線路脇、石塚稲荷の辺り、かつては料亭や待合が軒を並べ、そこに働く芸妓の住む小粋な貸家が多かった、という。
「四十に近からんとして又もや色に溺る行く年の今日此頃感慨殊に痛切」
「年々恥多き事のみ重なりて世の中つくづくいやになり居候」(大正四年大晦日、井上精一宛)
「四十に近く未だに身の持てぬふしだら赤面の至り嘸(サ)ぞかしおさげすみの事とこれのみ聊か心にかゝり申候」(大正五年一月十二日、籾山仁三郎宛〉
親しい友人に出した手紙には「宗十郎町へはごくないに」と頼むところもあるが、上田敏(柳村)や谷崎潤一郎が訪ねてきたこともある。
*
2月
2月限りで、慶応義塾の教授並びに「三田文学」の編集を退くことが、2月22日の慶応義塾評議員会で決定。在勤6年につき手当3ヶ月分450円が支給される。
*
3月
余丁町の邸の地所を半分、子爵入江為守に売却し邸を改築。
*
4月
創作に専念する傍ら雑誌『文明』を友人の井上唖々・籾山庭後とともに立ち上げ、太田蜀山人、寺島静軒
、成島柳北などの江戸戯作者や文人の世界に耽溺するようになる。
「けふこのごろ」(のち「矢立のちび筆」)、「矢はずぐさ」(5、6月にも)を「文明」に掲載。
「私はこれからゆつくり遊びもしたい。またゆつくり勉強もしたいと思つてゐる。この両三年来私の日常の生活及び趣味の赴く処は、昨日まで歩調を共にして来た新進の作家とは全然方向を異にしてゐる事を自覚した。それ故私はしばらく孤立して自由に好勝手に時勢に後れるだけ後れて行きたいと思ってゐる。
(略)
私は唯々気楽にこれから先早衰の晩年を送つて行きたいのだ。されば三田文学を辞して更に新しく雑誌を起すなぞいふ計画は今の処強ひて望む処ではない。雑誌なぞに物書くよりは置炬燵に独り下手な三味線でも爪弾してゐる方がよい。然しそれでは余り呑気過ぎて、このいそがしい世の中、お天道さまに済むまいと人に云はれて、急に再び雑誌屋を始める事になったのである。
然し売れるの売れないのとそんな事で頭を悩ますのはもう懲りごりである。文学美術の雑誌は売れない処に値打があるのだ。売って儲けたくば文学雑誌なぞを出すより春本でも書いた方がい、」
(「文明」の「発刊の辞」)
*
4月8日
夜、浜町常盤屋で雨声会が開かれて招待を受け出席した。
*
5月初め
大久保余丁町の本邸に帰り、玄関の六畳一室を「断腸亭」と名づけて起居。
「断腸亭」の名は、荷風が腸を病んでいた事と、秋海棠(別名、断腸花)が好きだった事に由来する。
*
6月頃
籾山庭後の紹介で同家かかりつけの医師、日本橋中洲病院長大石貞夫博士の診療を受けるようになる。
籾山庭後(籾山仁三郎):
初め庭後、のちに梓月と号する。籾山の「籾」をほぐして「米刃堂」と呼ばれることもある。
荷風に輪をかけた江戸好みで、『江戸庵句集』という著書がある。この句集には荷風も感服し、長い序文を寄せている。
また、荷風は日記にしばしば米刃堂の句や文章を書き写している。
『冬扇』という米刃堂晩年の句集のあとがきによれば、正岡子規にも俳句を学んでいるという。
荷風より1歳年長(明治11年1月10日生)。
籾山書店という出版社を興して「胡蝶本」という美麗な文学書を刊行したことでも知られる。
荷風との縁は「三田文学」の刊行を引き受けていたことが大きい。
この籾山仁三郎が大石医師と飲み友達だったことから、荷風は大石医師を紹介されたらしい。
籾山庭後の『断腸亭記』という文章
大正5年初夏の頃、「今晩新しい銘柄の酒を下げて参りましょうぞ」という連絡があり、大石医師が米刃堂宅へ来ることになった。
そのとき米刃堂は、ふと荷風のことを思い出し、
「これぞ又なき折なる、今宵わが荷風先生をも招き置きて、居士(大石医師)来られなばいやを云はせず脈とらするこそ賢けれ」(籾山庭後『断腸亭記』)と、なったらしい。
そして、
「越えて一日、また居士に逢ひけるにより、荷風先生病院へまゐられけるやと訊ね申せしところ、居士の言ふ、来たまひぬ、具(つぶ)さに診たり、成程(なるほど)念入にわるうしたる腸なり、腸壁薄うなりて吸収衰へたれば、栄養も十分なる能はず、且つは些細の異食にも冒され易く、陽気のいさゝかの変化にさへ忽ち影響を蒙りて、泄瀉(せつしや)を起し来るなり。胃の腑は健全なり肺の臓殊に頼母し。われ荷風子の為めに一薬を盛れり。且つ薄荷の一味をも加へたれば、号して荷風散といふもをかしからずや」(庭後『断腸亭記』)
と、なったらしい。
この『断腸亭記』は、大正7年に荷風が『断腸亭雑稿-米刃堂版』(籾山書店)を出したとき、巻頭に掲げられたも。
荷風の次弟・貞二郎と大石貞夫は、明治16年生まれで、中学校で同級という因縁もある。
6月
『色なき花』(のち『うぐひす』)、7月『支那人』(のち『仮面』)、8月『断腸亭雑記』(のち『一夕』)、『腕くらべ』(6年10月まで13回)を「文明」に発表。
7月
「(大正五年)七月三日 新聞萬朝報永井荷風を中傷す其記事数日にわたりて猶尽きずと云ふ。
七月四日 佐々醒雪、西原柳雨著川柳吉原志出づ。
七月五日 島崎藤村巴里より帰る。
七月五日 夜三田文学主筆沢木梢、米刃堂主人籾山庭後、久保田万太郎、久米秀治、小沢愛圀、永井荷風、小泉信三等田甫大金亭に会飲す此夜雨霏々たり。
七月六日 新橋辺も御趣意この方御詮議ゆるやかならざれば藝者見番にては子供達の身に万一の事ありてはと姐さん達を呼び集め此日いろいろ相談致せし由。
七月七日 夜株屋連中日露協商を祝はんとて雨中提灯行列をなす。
七月六日七日 森林太郎空車(むなぐるま)と題する小品を大阪毎日新聞東京日々新聞に掲ぐ伊沢蘭軒連載中に於てするなり。
七月七日 待合茶屋にて花骨牌(カルタ)﹈トランプを始めいろくの博戯(バクチ)一切厳しく御法度の由御触あり藝者渡世致すもの賭事にて御咎(トガメ)あれば鑑札お取上の上以後一生藝者商売お許し無之由。これにつきて年季の抱へ子は商売いやになった時は自由廃業するに及ばず借金踏倒すには却てよしとて内々よろこぶものありと云ふ」(『毎月見聞録』)
「萬朝報永井荷風を中傷す」は、
新橋芸者・富松が、「女から見た荷風氏」と題するインタビューに応じているもの。荷風の浮気ぶりについても語っている。
*
7月9日
上田敏が死去。荷風は「陰雨濛々天また泣く」(『毎月見聞録』)と記す。
*
7月15日
三田文学の小集に出席。
*
9月3日
ふたたび浅草旅籠町の妾宅に転居、この小家を買い入れ別宅としたが、1ヶ月余りで売却し断腸亭に帰る。
*
10月25日
「文明」寄書家懇談会を深川土橋の宮川亭で催す。
*
11月1日
「俳讃雑誌」発刊を企画。
*
11月末
小山内薫(久保田万太郎も関係がある)が荷風の『江戸演劇の特徴』を無断で、古劇研究会編・天弦堂刊『世話狂言の研究』に入れることにしたので、荷風が抗議。
*
12月
米田みよと手を切り、神楽坂照武蔵の芸者・中村ふさを身受け。
*
12月28日
弟・威三郎が分家して本籍を西大久保3丁目9番地に移す。
威三郎が結婚し、1kmあまり離れた西大久保に引っ越し、母親の恒も威三郎の家に一緒に暮らすことになる。
*
*
「★永井荷風インデックス」 をご参照ください。
*
0 件のコメント:
コメントを投稿