永禄8年(1565)
8月
・毛利軍攻撃、江尾城陥落。陣中の吉川元春、「大平記」書写を終える。
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・フェラーラ大公アルフォンソ2世、前妻ルクレツィア兄フランチェスコ夫人ジョヴァンナの妹バルバーラ・ドオストリアと結婚。
式場門前でルクレツィアの非業の死への遺恨持つメディチ家使臣とエステ家使臣が乱闘。
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8月2日
・丹波八木城主松永甚介(長頼、久秀弟)、氷上郡黒井城(赤井直正)攻囲中、反撃により戦死。
三好政権は丹波を喪失。松永一族の武力半減。
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8月5日
・一乗院覚慶(後の足利義昭)、大覚寺義俊の副状と共に上杉輝虎(謙信)へ宛てて、室町幕府再興を表明し友好関係を依頼。
6日、一色藤長・細川藤孝・和田惟政・杉原長盛ら、河田禅忠(上杉輝虎重臣)らに一乗院覚慶の室町幕府再興援助を依頼(「歴代古案」)。
以降、越前朝倉義景、河内畠山尚誠、三河松平家康、尾張信長、近江六角承禎ら諸大名に上洛援助を働きかける。
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8月8日
・六角宗房(近江箕作城主)、細川氏被官薬師寺九郎左衛門尉へ書簡。
阿波より足利義親(後の義栄)が上洛する前に、一乗院覚慶(後の義昭)が将軍家督宣言することが大切であり、六角氏側では紀伊根来寺などに連絡を付けている旨を通知。
9月28日、一乗院覚慶、武田信玄へ御内書を発給し援軍を要請。
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8月13日
・山科言継、松尾社の田代始を見物(「言継卿記」同日条)。
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8月19日
・北條勢、由良勢と戦う
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8月23日
・一次資料での秀吉の初見。
信長の坪内利定への宛行状への副状。宛行の実行者は秀吉(秀吉が坪内指揮権限を持つ)。
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8月23日
・三好義継、京都相国寺光源院へ足利義輝菩提料を寄進(「光源院文書」)。
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8月24日
・松永久秀、多聞山城内・家臣の瓦林左馬之丞(秀重)屋敷で茶会。
客は鉢屋紹佐・堺宗徳・松屋久政。
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8月27日
・興福寺一乗院、関白近衛前久の子を門跡として迎える(一乗院尊政)。(「多聞院日記」)
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8月28日
・スペイン、メネンデス・ド・アビレス一行、フロリダのケープカナベラル沖に到着。
北上し9月8日、入江を見つけ、その土地に開拓地・砦を建設、サンアグステイン(現セントオーガスティン)と名付ける。
フランス船隊の大半は迎撃に出たところをハリケーンに襲われ全滅。
フォートカロリーヌの陸上部隊は10月までには陥落し、難破船の生き残り共ども処刑(虐殺場所は、今日でもマタンサス(大虐殺)と呼ばれている)。
メネンデス・ド・アビレス:
1568年キューバ総督に任命、新大陸からの財宝を運ぶ輸送船団守備に貢献。
1572年フェリペ2世にスペインに戻されイギリスの侵攻に備えるスペイン無敵艦隊(アルマダ)総司令官に起用。
1574年9月17日艦隊編成中55才で没。彼の急没により、1588年無敵艦隊はメデイナ・シドニア公アロンソ・ペレス・ド・グスマンに委ねられ大敗北に繋がる。
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9月
・尼子義久の将山中幸盛、元就の将益田藤包の軍を富田城下に破る。
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・家康(24)、三明寺に対して別当職を安堵。
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・信長、尾張国継鹿尾山寂光院へ寺領・諸寄進田地・野山を「如前々」く安堵、諸役を免許。
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・森可成、美濃金山城主に封ぜられる。
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9月2日
・スペイン、メネンデス、カロリーヌ砦を奇襲。
20日、メネンデス率いるスペイン軍、フランスよりフロリダへのジャン・リボーらの植民者200人を上陸直後殺害。その後、植民地フォール・カロリーヌを奇襲。女・子供を除く住民虐殺。
1568年カトリックのドミニク・ド・グールギュ率いるフランス軍、スペインの砦を攻撃、報復として数百人のスペイン人を虐殺。
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9月6日
・フェリーペ2世のシチリア総督が派遣した兵8千、マルタに到着。
12日、マルタ島攻撃のオスマン・トルコ帝国スレイマン大帝軍、マルタ騎士団ジャン・ドゥ・ラ・ヴァレットによって撃破。
この戦闘でオスマン海軍は疲弊し、1571年レパントの海戦での西側大勝利に繋がる。(マルタ島首都ヴァレッタの名称はマルタ攻防戦のときの騎士団長の名前に由来)
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9月9日
・信長、武田氏に養女と武田勝頼の婚姻を申し入れ。信長養女は11月に輿入れ。同盟締結。
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9月19日
・島井宗叱、大友宗麟に高麗焼茶碗を贈る。
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9月20日
・益田藤兼の侍大将品川大膳(通称・石見の狼)、山中幸盛(鹿介)と広瀬川中州で一騎討ちをし敗れる。
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9月28日
・堂洞の戦い。
美濃斎藤氏の長井道利、織田方の加治田城から25町の堂洞(美濃加茂市蜂屋)に砦を築き、岸勘解由左衛門らを入れ、自らは関に本陣。
この日(28日)、信長の援軍、堂洞を攻撃。
酉の刻(5時)過ぎ、河尻与兵衛秀隆が本丸へ突入。丹羽長秀勢が続く。
混戦の後、夜、砦陥落
(丹羽長秀は信長の小牧移転~堂洞の戦い迄の2年間で一番の活躍)。
信長は高畑の恵日山に本陣を置き関城の援軍を防ぐ。
丹羽長秀らが夕田と蜂屋から攻め入り、北面の加治田城から佐藤忠能が攻め入る。
城兵は果敢に応戦。長尾口丸山方面で奮戦の城主岸信周の子の信房が討死し、信周は妻と刺し違え自害。
8時間の激闘の末、堂洞城は落城、一族は玉砕。
「信長公記」筆者太田牛一、二の丸入口の高い家に登り弓矢で奮戦、知行を得る。
7年間の美濃攻めでの数少ない徹底的な攻城戦。
「信長は請手(うけて)に御人数備へられ、攻めさせられ、御諚(ごじよう)のごとくたえ松を打入れ、二の丸を焼き崩し候へば、天主構(てんしゆがまえ)へ取入り候を、二の丸の入口おもてに高き家の上にて、太田又助只一人あがり、黙矢(あだや)もなく射付(いつ)け候を、信長御覧じ、きさじに見事を仕(つかまつり)候と、三度迄御使に預り、御感有て、御知行(ごちぎよう)重ねて下され候キ。」(「信長公記」)。
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9月28日
・一乗院覚慶(後の足利義昭)、武田信玄へ御内書を発給し援軍を要請
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9月29日
・稲葉山の斎藤龍興、関の長井勢と合流して約千で押し寄せる。
信長勢僅か700~800。信長、退却。
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「★信長インデックス」 をご参照下さい。
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