2011年9月2日金曜日

永井荷風年譜(18) 大正2年(1913)満34歳 父の死 一回目の離婚 「親類は法事の外に用なし。子は三界の首伽。門弟は月夜の提灯持なり。皆無きに如かず」

永井荷風年譜(18) 大正2年(1913)満34歳 
1月
『戯作者の死』(のち『散柳窓夕栄』)を「三田文学」に掲載(後半を3、4月号に)。
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1月2日
父久一郎(59歳)、没。正四位に叙せられる。
6日午前9時、神田美土代町の基督教青年会館にて葬儀。
8日、家督を相続。過分な遺産を相続。
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前年暮れ(大正元年12月30日)、雪の降る中、庭に出ていた松の盆栽を室内に取り込もうとして手を延ばした瞬間、脳出血を起こして昏倒。
この時、荷風は、新婚にもかかわらず、内緒で八重次と箱根に浮気旅行。

帰京していたが、雪が降っているので、帰らずにいた。
永井家では、荷風の行方を大さがし。
居場所をこっそり教えておいた籾山庭後が、荷風にそれを伝えてくれた。

荷風はこの時の顛末を十三回忌も過ぎた大正15年1月2日の父親の命日に日記に書いている。


正妻を迎えてしまったため、八重次に済まないと思い、学校の暮の休みを利用して箱根へ誘ったという。


父が倒れたとき、いち早く駆けつけたある軍人が、
「(荷風の)外泊の不始末を聞き、帯剣にて予を刺殺さんとまで奮激」したようだ、
しかし、「尤この海軍士官酒乱の上甚好色にて、予が家の学僕たりし頃下女を孕ませしこと二三名に及べり。葬式の前夜も台所にて大酔し、下女の意に従はざるを憤りて殴打せしことなどあり」
と書く。


別のところでは、父が没した際の親戚の振る舞いについて憎悪の感情を書いている。

「余が家翁の世を去られし時にも親戚群り来りて其の筋より叙位叙勲の沙汰あるまで訃を発すべからずとなし虚栄の為に欺瞞の罪を犯す事を顧みぎりき。

家翁は生前より位階を欲せず失意の生涯を詩に托して清貧に甘んぜられし…(中略)…
然るに親族の中今日上院の議員となり居れる何某の如きは墓石に位階勲等を記入せんとし・・(中略)…。
死者を辱むるもの親族より甚しきはなし。

余の親族多くは官米を食む。
官吏は佞辯邪智に富むものにあらざれば立身せず故に余擯斥して途上に逢ふ事あるも顔を外向け言語を交へぎる事既に十年を越ゆ。
先方でも小説家輩はゴロツキなりとそれ相応に髭をひねつてゐるなるべし。

親類は法事の外に用なし。子は三界の首伽。門弟は月夜の提灯持なり。皆無きに如かず」(『偏奇館漫録』大正十年三月)

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強烈な人生観ではある。
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2月17日
 妻ヨネと離婚。
(父親を安心させるための結婚であったか、父が没すると四十九日もたたずに離婚)

「先年三田慶應義塾に勤めし頃娶りしもの、湯嶋聖堂の裏手に相応の店を張りし商家の娘なりしが、離縁のはなしに親元より五百円ほしき由申出でたれば持たせつかはしたる事あり。
東京の女にもかゝる例あれば参考のため記し置くなり。
その後売女の手切金につきては又別に記すべし。世には売女とさへいへば貪欲甚しきやうに思ふものありと雖、いざ手切金のだんになりて話さへわかれば案外さっぱりとしたものにて、わづかばかりの目腐れ金に人の足を運ばせるは却て素人に多し。
一口物に頬を焼くといふ古人の金言思ふべきなり」(『桑中喜語』)

一口物に頬を焼く:
一口で食べられる程の僅かな食物を食べて、口中を火傷すること。
荷風にとって素人の女はちょっとした試し食いの対象のつもりだったが、意外にひどい目にあったと言うこと。勝手なもんである。

ヨネの実家から500円の慰謝料を請求された。
この頃の米10キロは1円80銭くらいなので、当時の500円は現在の100万円ほどらしい。
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3月10日
夜、永井邸に泥棒が入り、荷風の羽織と外套が盗まれる。
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この頃、『戯作者の死』を脱稿し、『玉楳記』という漢詩趣味の長篇小説に着手。
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3月30日
鴎外が荷風を訪問。
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4月
『珊瑚集』(訳詩集)、籾山書店から刊行。
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5月14日
夜、三田文学会の有志籾山庭後、松本泰、小沢愛圀、久保田万太郎ら9名、荷風宅に参集して座談会を催し、今後毎月第二火曜の夜例会を開き作品朗読と批評会をもつことを決める。
この時、荷風は浮世絵の珍しいコレクションを披露。
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6月
『父の恩』を「三田文学」(後半を8年8月「新小説」未完)掲載。
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7月
この頃隔日に数寄屋橋外の歯科医に通う。
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天明期の狂歌の風懐に関心を強める。
慶応義塾図書館の和本書庫に入り、写本を読み漁ることもある。
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8月5日
朝、慶応義塾大阪講演会に講師として出席のため出発、京都丸山のほとりに宿泊。
6日朝、上田敏を訪ねるが不在。
その帰途、知恩院の襖絵(狩野派初期の花鳥画)を見て感銘を受ける。
午後、大阪に着く。
午後7時~9時、東区南久太郎町の浪華小学校にて、「ゴンクールの浮世絵研究」と題して講演。
7日、祇園祭を見て、夕刻帰京の途につく。
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9月
『大窪日記」(のち「大窪だより」「大窪多与里」)を「三田文学」に掲載(3年7月まで9回)。
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9月18日
巌谷小波の満洲旅行にあたり、木曜会の送別会を向島八百松楼で開き川遊びをする。
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10月
留学中の末弟威三郎が帰国し、大久保の邸に入る。
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10月3日
八重次の家で唖々と共に新曲の節付や振付をした。
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12月
『恋衣花笠森』を「三田文学」に発表。
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亡父の漢詩文集『来青閣集』10巻を印刷して知友に贈る。
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「★永井荷風インデックス」 をご参照ください。
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