2011年9月11日日曜日

樋口一葉日記抄 明治27年(1894)7月20日(22歳) 「東女(あづまをんな)はどんな物か、狭けれども此袖のかげにかくれて、とかくの時節をお待なされ」(樋口一葉「水の上日記」)

この頃の一葉が住んでいた丸山福山町というところは、歓楽街であったらしい。
(その前に住んでいた龍泉寺は吉原遊郭の傍であった。)

一葉の家の隣には銘酒屋「浦島」があった。
この日(明治27年7月20日)、この「浦島」で働く小林あい(愛)という女性が一葉に保護を求めてくる。

一葉は、
「・・・・・
「すくひ給へ」とすがられしも縁(えん)也
「我身にあはぬ重荷なれども、引受ますれば、御前様は此家の子も同然、いふ事きひて貰はねば成ませぬ。
東女(あづまをんな)はどんな物か、狭けれども此袖のかげにかくれて、とかくの時節をお待なされ」と、引うけたるは今日也」
と書く。

このとき、一葉は「文学界」に連載中の「闇夜」の続編が完成出来ずに苦闘中なのである。

東女(あづまをんな)はどんな物か(お見せしましょう)」という、なんともカッコいいのである。

日記の記述でゆけば、7月20、21、23日の3日分だけだが、20日の日記はなんとも長い。
(短編小説のようである)
*
*
明治27年7月20日
隣家に此ほどよりかゝり居る女子あり。

生れは神戸の刀剣商にて、然るべき筋の娘なれど、十六の歳より身の行(おこなひ)よからで、契りしは何某(なにがし)の職工成ける。父なる人の怒にふれて、侘しき暮しを二、三年がほどなしつる。かゝりしほどに、男子一人まうけて、二人が仲にはあくこゝろもなかりしを、男の親の心あしく、此女(このむすめ)いかにしてもかくてあられぬ時は来りぬ。

「今はせんなし」とて、別れて家にかへる時、子は我が方につれもどして、その身はそれより大坂中の島の洗心館に仲居といふ物に成りて、ことし五年がほど過ぬ。

さるほどに、此女生つき闊達の気象、衆客の心にかなひて、引手あまたの全盛こゝにならぷ物なく、「洗心館のお愛」と呼ばれては紅葉館のお愛と東西に嬌名(けうめい)たかく、「我ぞ手折(たをり)て我宿の」と引かるゝ袖の、さりとはうるさや。

「一つ心を、ぬし様に」と思ひこみぬるは、かの地に名高きぼう易商、こゝにも人ぞしる森村市蔵が一家に、広瀬武雄とてとしは二十六、当世様(たうせいやう)の若大将。粋(すい)は身をくふ合(あひ)ぼれの仲おもしろく、互にのぼる二階三階、せきはとゞめぬ帳場の為にも、「大尽客」とて下にも をかぬもてなしを、猶や「ぬし様御顔よかれ」と、みえにはそろひの惣(そう)はつぴ、女子にちらす紙花(かみはな)の、哀れや女(むすめ)もつまりに成りて、双手にあまりしこがねの指輪、一つは内処(ないしよ)、二つはそつと、三つ四つと売つくせば、やがては客のひゞきに成りて、岡(をか)やき半分なぶらるゝ。座敷の数は昔しのまゝとても、我が手にのらぬそれ鷹(たか)のねらひたがへは、互がひの上にもみゆるぞかし。まけじ気性は今更の恋に火の手つのりて、「御免候へ。我にも可愛き人一人。のろけはならひぞ。うら山しくは真似ても見給へ。

花を見捨る裏住居(うらずまひ)も、ぬし様故なら大事なき身」と、おもて晴たる取なしに、「長くはあられぬ此家(このうち)をはなれて、共に」と計(ばかり)、息子も折ふし使ひ過しの詮議むづかしく、こゝの支店に左せんの身となれば、とるや手に手を「鳥が鳴(なく)」とはふるし、「東(あづま)に行てしばしの辛抱を」と、「落人」ならねど人前つゝましき二人づれの汽車の中、出むかひの手前は、「さる大家の姫様、学問修業にこれへとあるを、我れに托されて同道」とくるむれど、誰が目に見てもそれ者(しや)あがりのなりふり。

さりとはむづかしの乳母(うば)のもとに、しばしの宿をととゞめける。「我れも家(か)とくは四、五年の後なり。部屋住(へやずみ)の身の思ふにまかせぬほどは、そなたも修業ぞや。つらくとも堅気の家に奉公ずみして、やがて花咲く春にもあはゞ、仮親(かりおや)もうけて『奥様』とはいはすべし。頼む」とありけるぬしが詞(ことば)勿体なく、骨身にきざんで「さらは」と出立(いでた)てば、全盛うつたる身に、一人女子のはしり使ひ、何としてたへらるべき。我れこらゆれども、お主様(しゆうさま)御気(おき)に人らねば甲斐なや。出もどりの数を尽して、「乳母の手前はづかしや」と、こしらへ言の底情なくわれて、「京の大家(たいけ)の姫様と聞ましたるは偽り、九尾(きうび)の狐の、我が若旦那様手の中にまろめて、手だてあぶなや。大切は若旦那様が上」とて、乳母が怒りに取つく島ふつとはなれて、我とはとかぬとも綱に、行衛は波のわた中を、流れ小舟の身の上助くる人なくて、乳母が前への謝罪(わび)はこれと、をしや、三日月の眉ごそりとそりぬ。

「すくひ給へ」とすがられしも縁(えん)也。「我身にあはぬ重荷なれども、引受ますれば、御前様は此家の子も同然、いふ事きひて貰はねば成ませぬ。東女(あづまをんな)はどんな物か、狭けれども此袖のかげにかくれて、とかくの時節をお待なされ」と、引うけたるは今日也
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(意訳)
小林愛。生まれは神戸の刀剣商。16歳から品行が良くなく同棲を始める。
父の怒りにふれて人目をはばかり生活するうちに子供もできた。2人の仲は良かったが、男の親が悪く、結局子供を引き取って別れることになった。

その後、大阪、中の島の料亭、洗心館で働くが、朗らかでさっぱりした気性なので、客受けもよく、「洗心館のお愛」と呼ばれ、東京の「紅菜館のお愛」とともに評判も高くなる。
袖引く客が多い中で、貿易商森村市蔵の部下の広瀬武雄26歳と相思相愛の仲となる。
男は店で散財する、女は、ぬし様の顔を立てようと見栄を張り、店の者にも揃いの法被を着せたり、女中たちにもお金をばら撒いたりした。
両手にはめきれないほどの金の指輪を、一つ目は内緒に、二つめはそっと、さらに三つ四つと全て売り尽くし、他の客たちからは嫉み半分にひやかされるしまつ。

客も以前通りに多かったが、みすぼらしい裏町住まいでも、一緒だったら何とも思わぬと、この男と一緒に暮らすことになった。
男の方は、使い込みの取り調べがうるさくなり、東京の支店に左遷されることになり、しばらく辛抱しようと、二人で東京に向かう。

東京では、男は出迎えの者に、大家のお嬢さんが学問修業に上京されるのを、頼まれてお連れした、と言うものの、誰の目にも芸者あがりの女に見えた。
そして女は男の乳母の家にしばらく身を置くことになる。
女は奉公に出るが、かつては花柳界ではばをきかした身で、走り使いの仕事はなかなか定着しない。乳母の手前は恥ずかしく、言い訳もすぐばれてしまい、乳母は怒り狂ってしまう。
自分では切らなくても、とも網を切られた小舟のように波のまにまに流れて行く身を助けてくれる人とてもなく、乳母をだました謝罪にと、美しい三日月のような眉を剃り落とした(*銘酒屋で働く、娼婦になる、くらいの意味があるようです)。

私がすがったのも何かの縁があったからか。
分不相応な重荷であるが、引き受けた上は、お前様はこの家の娘も同然、私の言うことを聞いて貰わねばならない。
東女の心意気がどんなものか見せてあげよう。狭いけれどもこの袖の陰に隠れて、しばらくの間、時期が来るのをお待ちなさい、 と今日これを引き受けた。

*
*
7月21日
二十一日 早朝、孤蝶君よりはがき来る。「続稿は二十二日中にてよし」とのこと、嬉しき人也。

今日午後より田中君のもとを訪ひて、お愛がしばしの宿にたのまんとす。日ぐれ少し前よりゆく。留守成しかど、しばしまつ。
かにかくと断(ことわり)がましく言を左右に托せど、「見かけて頼みし我れに対し、『厭(いや)』とあらは、お前様(まえさま)女子(おなご)にはあるまじ。横に車かしらず、長くとにはあらず、二月か三月、それもむづかしくは一月にてもよし」とて、をしつかへしつのはてに、「さらは試(こころみ)に二日がほどをよこし給へ」といふ。雷雨はげしく、かへりは車にて送らる。
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(意訳)
とにかく、田中みの子のところで2、3日預かってもらうことになった、
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7月23日
二十三日 早朝、田中君より断(ことわり)の手紙来る。
「まことはうしろぐらき処ある人の、我れにはひたすらつゝまんとする物から、我よりつかはしたる女子に家内の様子しれなば、つひには身の為よからじ、との心なるべし。あな狭の人ごゝろや」などをかし。
さるにても、お愛のなげき一方(ひとかた)ならず。「いかでかく非運薄福の身」と打なくさま、哀れにいぢらしければ、「さらば今一度、我が師のもとを訪ひて頼みてみん」と、家を出づ。
師には事情(わけ)残りなくうちあけて頼み聞えたるに、師は、「その人となりの表面上よろしからざるに、これを引うけてかくまふといはゞ、我も君もこれよりの前途に一大障碍となりて、遂に救ひがたき大難を生ずべし」とて、聞入れ給はず。今はかひなし。

帰宅後、猶よくおあいと相談す。「さらば一直線に武雄ぬしのもとを訪ひて、諸事談合の上に、いか様とも策のほどこし方はあるべし。木挽丁は物の表にして、これにはつくろひもあるべし、はゞかりもあらん。武雄ぬしとの仲は紙一枚の隔てなく、かくしだての入るべきならず。又、よしや世人(よびと)は何ともいへ、君にしていのちと頼むは此人なるべし。箱根にいますと定まりたらは、宮の下か芦之湯か、いづくまれ、尋ねてしれぬ事はあらじ。
いざ給へ。行て逢見て後(のち)の事」とうながすに、「さらば」と思ひ起して直に支度す。
隣家の妻がとゞむる(ことば)詞のうるさかりしかど、さまざまに頼み聞えて出づ。出がけに、「木挽町より帯取寄る為」とて、文したゝむ。隣の妻が名前にて、「ぬしのありかしれ居らば、此文のはしにしるし給へ」とかく。
送りし車夫(くるまや)の帰りしは、午後三時過る頃成し。首尾よく策の当りて、宿処(やど)を教へたるよし、まづはうれしかりしに、「隣家の主(あるじ)帰宅の後、直(すぐ)に木挽丁に実事(まこと)打あけん」といふ。「そはよろしかるまじ」とてとゞむるに、猶くどくどとのゝしりて、乳母のかたへの義理を思ふ。哀れなるは小人(せうじん)、とるべき道をあやまりたるの人なり。
********
(意訳)
田中みの子から断りの手紙が来る。

(意地悪い描写になっている)
本当は、みの子自身もうしろ暗い所があるので、それを私には隠そうとしているが、こちらからやった女の子に家の事情が知れたら、自分のためにもよくないと思ったからだろう(と、一葉は勘ぐる)。

次に、師の歌子に頼むことにする。
しかし、その歌子も世間体だとか、今後の障碍だとか難儀を心配して引き受けてくれない。

結局、男(広瀬武雄)のところに行くしかないという結論になり、乳母からうまく男の現住所を聞き出し、隣の主人が何かと邪魔をするなか、愛を男の許へ送る。
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7月20日~11月8日の日記はないため、その後の顛末は不明。
しかし、1年後の明治28年11月3日の日記に、

「神戸の小林あい子より松たけ一籠おくりおこしたるを、いひにたきて集(あつま)りてたうべぬ。」
とあり、うまく決着したと推測できる。
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「★樋口一葉インデックス」をご参照ください。
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