大正3年(1914)満35歳
2月
八重次(内田ヤイ)がリユウマチスのため舞踊不能となり、妓家をたたんで静養するため四谷荒木町27番地に隠棲。
余丁町の永井邸に近く出入りが始まり、荷風との交情は一層深まる。
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3月
『散柳窓夕栄』を籾山書店から山版
戯曲『三柏葉樹頭夜嵐(ミツガシハコズエノヨアラシ)』を「三田文学」に掲載。
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3月16日
左団次と共に大彦を訪れ、古代の模様を各種見る。
左団次との交遊によって、好古趣味が一層刺戟される。
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3月21日
・神田青年会館での平出修の告別式に参列
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5月15日
食中毒で熱発と下痢。療養半月に及ぶ。
八重次の看護ぶりと才気に母の恒が感服する。
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8月30日
市川左団次夫妻の媒酌で、新橋の芸妓・八重次(のちの舞踊藤蔭流家元、藤蔭静枝)と結婚式を挙げる。浅草山谷の八百善で披露し、母恒も出席した。
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この結婚を機に、末弟威三郎や親戚との折り合いが悪くなる。
秋には、邸内に新たに垣をつくり、門を別々にし母恒と威三郎とが同居する。
八重次との結婚について、従兄永井松三に相談したが同意を得られず、これがもとで松三との間が気まずくなる。
大正5年(1916年)5月、末弟威三郎がある工学博士の三女と結婚するが、この結婚には、荷風と「別戸籍とすること、新居を構へること、結婚式當日荷風を参列させぬこと」などの条件付だったという(『荷風外傳』による)。
威三郎の結婚以後は、荷風は、次弟貞二郎を別として威三郎をはじめ親類縁者との交際も絶つ。
八重次との結婚生活は「清福限りなし」
「八重家に来りてよりわれはこの世の清福限無き身とはなりにけり。
人は老を嘆ずるが常なり。然るにわれは俄に老の楽(タノシミ)の新なるを誇らんとす。
人生の哀楽唯其の人の心一ツによる。
木枯さけぷ夜すがら手摺(テズ)れし火桶かこみて影もおぼろなる燈火の下に煮る茶の味は紅楼の緑酒にのみ酔ふものゝ知らざる所なり。
寝屋の屏風太鼓張の襖なぞ破れたるを、妻と二人して今迄は互に秘(ヒメ)置きける古き文反古取出して読返しながら張りつくろふ楽しみも亦大厦高楼を家とする富貴の人の窺知るべからざる所なるべし。
菊植ゆる籬(マガキ)または厠の窓の竹格子なぞの損じたるを自ら庭の竹薮より竹切来りて結びつくろふ戯も亦家を外なる白馬銀鞍の公子達が知る所にあらざるべし。
わが物書くべき草稿の罫紙は日頃暇ある折々われ自らバレン持ちて板木にて摺りて居たりしが、八重今は襷がけの手先墨にまみるゝをも厭はず幾帖(イクデン)となく之を摺る。
かゝる楽しみも近頃西洋紙に万年筆走らせて議論する文士の知らざる所とや云はん」
「われ家を継ぎいくぱくもなくして妓を妻とす。
家名を辱しむるの罪元より軽きにあらざれど、如何にせん此の妓心ざま素直にて唯我に事(ツカ)へて過ちあらんことをのみ憂ふるを。
何事も宿世の因縁なりかし。
初手は唯かりそめの契も年経ぬれば人に云はれぬ深きわけ重なりてまことの涙さそはるゝ事も出で来ぬるなり。これ等をや迷の夢と悟りし人は云ふなるべし。
世の誚(ソシリ)人の蔑(サゲスミ)も迷へるものは顧ず。われは唯この迷ありしが為に所謂当世の教育なるもの受けし女学生上りの新夫人を迎ふる災厄を免れたり」
(『矢はずぐさ』大正5年)
*8月
井上唖々と連れ立って、亀戸の常光寺をふり出しに、千住へまわり順次に六阿弥陀詣をする。
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8月
『日和下駄』を「三川文学」に連載(4年6月まで9回)。
『日和下駄』(別名「東京散策記」)
名所案内や季節ごとの花鳥諷詠ではない。
「淫祠」「樹」「地図」「寺」「水」「路地」「閑地(アキチ)」「崖」「坂」「夕陽」と、このような順序で東京を散策。「水」では渡し船、「夕陽」では富士眺望も語られる。
冒頭の「淫祠」では・・・。
町角に祀られている怪しげな神を「淫祠」という。荷風はそこに民衆の心の奥深さを感じ取ってゆく。
頭痛に効く「炮烙(ホウラク)地蔵」、虫歯退治の「飴嘗(アメナメ)地蔵」、小石川の「こんにゃく閻魔」などなど。
荷風にとっての「風景」
「実際現在の東京中には何処に行くとも心より恍惚として去るに忍びざる程美麗な若しくは荘厳な風景建築に出遇はぬかぎり、いろいろと無理な方法を取り此によって纔(ワズカ)に幾分の興味を作出さねばならぬ。
然らざれば如何に無聊なる閑人の身にも現今の東京は全く散歩に堪へざる都会ではないか。」
(『日和下駄』第4章『地図』)
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10月
『歓楽』を俳書堂(籾山書店)から非売品として刊行。
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前年からこの年にかけて浮世絵関係のエッセイを多数執筆。
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11月17日
「三田文学」の編集経営にかかわる用件で、石田新太郎と共に森鴎外を訪問。
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「★永井荷風インデックス」 をご参照ください。
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