2011年9月25日日曜日

天応元年(781)1月1日~4月15日 元日に改元 光仁天皇譲位 山部親王践祚し桓武天皇即位

天応元年(781)
1月1日
・「天応」に改元。桓武即位の舞台を整える。
この年は辛酉年で、『続日本紀』によればその元日が辛酉の日に当たっている。
この日、日本史上唯一の、元日の改元となる。

中国では、辛酉や甲子、とくに辛酉の年には大きな変革(革命)があると考えられていた(識緯説)。
革命とは天命(天帝の命令)が革まることで、王朝交替を意味する。

日本には王朝交替はなかったが、革命思想は伝わっていた。『日本書紀』における神武天皇の即位は紀元前660年の辛酉年である(辛酉革命説に基づく作為)。
天応改元は、辛酉年の元旦が辛酉の日という慶事を祝して行われ、光仁天皇の譲位と新天皇(桓武)の即位を予感させるもの。    

しかし、「辛酉年の元日が辛酉の日」という慶事は、作為的な暦の操作により、辛酉革命による大変革を印象づけるための政治的演出である。
暦の計算では、当年元日の干支は庚申であるが、それを前年12月晦日に移し(正月1日庚申を12月30日庚申とする)、元日を辛酉に合わせた。
暦は、前年の11月1日までに陰陽寮が作成し、中務省に提出する(雑令造暦条)ので、暦の操作はそれ以前になされている。従って、征東使が征夷中止を進言し、光仁天皇がそれに激怒した前年10月末には、天皇は譲位の意思を固めていた可能性が高い。

のちの、長岡京遷都の年は甲子年で、平安京遷都の詔も辛酉の日に下されている。

改元の詔の中で光仁天皇は、伊勢斎宮の上空で出現した美雲が大瑞にあたること、それを祝して「天応」と改元し、天下に大赦すること、斎宮の官人・伊勢大神宮司らに叙位することを述べた後に、

もし百姓、呰麻呂らのために註誤せられて、よく賊を棄てて来たる者あらば、復三年を給へ

と述べる(『続日本紀』天応元年正月辛酉条)。

呰麻呂の叛乱と行動を共にした移民系住民に対して、その罪を許し、しかも3年間の課役を免除するとの破格の優遇措置を講じ、戻ってくるよう呼びかける。

移民系住民には逃亡者だけでなく、反乱軍と行動を共にした者もあった。
本来、律令では敵に身を投じることは「謀叛」とされ、計画しただけで絞首刑、実行すれば斬首刑となる(賊盗律謀叛条)。
*
2月
・相模・武蔵・安房・上総・下総・常陸国に穀10万石を多賀城まで海上輸送させることを命じる。
*
4月3日
光仁天皇、譲位。皇太子山部親王、践祚。
*
4月15日
・山部親王が即位の式を挙行し、桓武天皇となる。

桓武は即位した時、母親の高野新笠を皇太夫人(こうたいふじん)とし、同母弟の早良(さわら)親王を皇太子に立てる。
新笠への皇太夫人号授与は、彼女を光仁天皇の正妻に仕立て、自分を嫡妻の子としたことを意味し、嫡妻の子のみに皇位継承権があることを明示したことになる。

桓武の即位宣命(せんみよう)(『続日本紀』)。
「掛けまくも畏(かしこ)き現神(あきつみかみ)と坐(いま)す倭根子天皇(やまとねこすめら)が皇(おおきみ)、この天日嗣高座(あまつひつきたかみくら)の業(わざ)を、掛けまくも畏き近江大津宮に御宇(あめのしたしらへ)しし天皇の勅(の)り賜ひ定め賜える法のまにまにうけ賜わりて仕え奉れと仰せ賜い授け賜えば……」
「近江大津宮に御宇しし天皇」は天智天皇のこと。

それまでの即位宣命は事細かに即位の経緯を述べているが、桓武の場合は皇位を継ぐ正統性の根拠が、天智天皇が定めた法(不改常典ふかいのじようてん)に基づいて父光仁天皇から皇位を受け継いだことに単純化されている。
天武(聖武)系から、天智系-光仁という皇統の革新を強調している。

●「桓武」という諡号(死後に付けられる贈り名)の意味
①『詩経』周頌(しゆうしよう)の「桓桓(かんかん)たる武王」を典拠とする。「桓桓」とは「たけだけしいさま」を表し、「桓武」は血気盛んな武王を意味する。
②『周書』諡法(しほう)に「土(くに)を辟(ひら)き遠きを服するを桓と曰(い)ふ」、『史記正義』諡法に「土を辟き国を兼(あわ)すを桓と曰ふ」とあるように、中国では国土を広げた皇帝の諡号に「桓」を用いるので、これを典拠とする。この場合、「桓武」は国土を広げた武王という意味になる(森鴎外)。
いずれにしても、彼が「桓武」と呼ばれる所以は、蝦夷征討(征夷)にあった
造都ではなく征夷の事跡を選んで諡号が付けられていることに、征夷がいかに重要な国家的課題であったかを見て取ることができる。
この諡号は、桓武が没した大同元年(806)から、それが初見する天長2年(825)までの間に奉呈されている。

■桓武朝の概観
征夷と造都「軍事と造作」が桓武朝を象徴する事業。
延暦24年(805)の徳政相論で、藤原緒嗣が「まさに今、天下の苦しむところは、軍事と造作なり」と主張してその中止を求め(『日本後紀』延暦二十四年十二月壬寅条)、『日本後紀』は桓武天皇を評して、「内に興作を事とし、外に夷狄を攘(はら)ふ」と述べている(大同元年四月庚子条)。
桓武天皇は、この二つを自らの権威付けに最大限に利用した。
百済系渡来氏族出身の母のもとに生まれた桓武天皇は、天皇としての権威が十分ではなく、自らの即位と統治権の正当性を行動(二度の遷都と三度の征夷)によって示す必要があった。征夷と造都は律令国家形成期以来行われてきて、桓武朝に至って最高潮に達し、そして終焉を迎える。

■桓武天皇と鷹狩
桓武天皇は、128回の鷹狩を行っている(歴代天皇の中では突出して多い)。鷹狩は即位2年後にあたる延暦2年(783)に始まり、延暦10年までは2年に1回ペースが、延暦10年代(50代後半~60代前半)には、年に10数回も行われるようになり(延暦16年の15回が最多)、延暦23年(68歳)まで毎年のように行われる。
場所は、初期には主に交野(大阪府枚方市・交野市)で、後には長岡京の西北にある大原野(京都市西京区)、西南にある水生野(みなせの、大阪府三島郡島本町の水無瀬)など、長岡京・平安京の周辺に22箇所の猟場が知られている。
鷹狩は天皇の特権、天皇を象徴する行為で、桓武にとっては自己の武力を見せつけ、天皇として権威を示す場でもあった。

■桓武天皇と百済王氏
桓武天皇が初期に鷹狩を行った交野は、百済王氏(くだらのこにきし)の本拠地である。百済王氏は、百済最後の王義慈王を祖とする百済王族の子孫で、660年の百済滅亡の前後に倭国(日本)に亡命した。
桓武天皇の生母である高野新笠は、同じ百済系渡来氏族である和(やまと)氏の出身で、本来は百済王氏より先に渡来した別の氏族であったが、桓武天皇は百済王氏を「朕の外戚」と呼んで、ことのほか優遇した(『続日本紀』延暦九年二月甲午条)。
延暦7年頃、和気清麻呂が中宮高野新笠の求めに応じて『和氏譜(わしふ)』を作成し、天皇はこれを非常に喜んだと伝えられる(『日本後紀』延暦十八年二月乙未条)。
高野新笠が百済の武寧王の子孫であるという『続日本紀』延暦九年正月壬子条の所伝は、この時に作られたと考えられている。

交野での鷹狩は、128回中の9回であるが、即位して間もない桓武天皇が百済王氏の本拠地の交野を選んで、百済伝来の鷹狩を行い、百済王氏はこれに奉仕して、叙位・賜禄に預かった。
天皇の行為である鷹狩に、母方の親族を関与させ、その地位を向上させ、併せて自らも権威付けようとした。

しかも桓武天皇は百済王氏と積極的に姻戚関係を結んでいる。
百済王俊哲(しゆんてつ)の娘教法(きようほう)は桓武天皇に、同じく貴命は桓武の子嵯峨天皇に、それぞれ女御として入内しており、他に桓武の後宮には百済王教仁・百済王貞香(じようきよう)、嵯峨の後宮には百済王慶命の名が見える。

また宝亀11年(780)の最初の征東大使藤原継縄(つぐただ)は、交野に別荘を持ち、その妻百済王明信は、桓武の寵愛を受けて女官の最重要ポストである尚侍(ないしのかみ)となっている。

百済王氏には、天平勝宝元年(749)に陸奥国小田郡で黄金を発見し、東大寺大仏の完成に寄与した百済王敬福(きようふく)など、東北政策に関わった人物が多い。
娘2人を桓武と嵯峨に入内させた百済王俊哲は、38年戦争の開始以来、長期に渡って征夷に関わり、延暦10年には坂上田村麻呂らとともに征東副使になっている。
また伊治公呰麻呂の乱に伴う征夷には、百済王俊哲とともに百済王英孫が参加しており、延暦23年には百済王教雲が征夷副将軍に任命されている。
他にも、鎮守府官人、陸奥・出羽の国司となった人物が少なくない。

■桓武朝の征夷
桓武朝の征夷は、蝦夷の反乱に起因するものはなく、国家の主体的意思に基づく軍事侵攻であり、計画から実施まで数年の準備期間を要している。
延暦8年の征夷を桓武朝第1次征討、13年の征夷を第2次征討、20年の征夷を第3次征討と呼ぶ。それ以前の延暦3年に大伴家持が持節征東将軍に任じられたが、家持の没によって実施さず、延暦23年に計画された第4次征討は、翌年12月の徳政相論によって中止される。
光仁朝から引き継いだ伊治公呰麻呂の乱に端を発する宝亀11年の征夷は、十分な戦果を上げることなく事実上終了。

桓武天皇にとっての征夷は、呰麻呂の乱によって失墜した国家の威信を取り戻し、天皇の統治権の及ぶ範囲を飛躍的に拡大し、自らを権威付けるための戦いである。
桓武天皇としては、蝦夷に対して圧倒的な軍事的勝利を収める必要があり、第1次征討では5万2,800、第2次征討では10万人、第3次征討では4万人という大規模な征夷軍を編成し、入念な準備をしてから実施した。
なお、桓武朝では、征夷の負担が東国に、造都の負担が西国に、課されていた。

■桓武朝の前半と後半
桓武が征夷において成果を挙げたのは、平安遷都と同時に行われた延暦13年(794)の第2次征討以後であり、その25年間の治世の中では後半のことに属する。
それ以前は、はかばかしい成果を挙げることができず、延暦8年には胆沢の戦いで大敗を喫している。
(史料)
桓武天皇の治世を記した官撰史書は、延暦10年までは『続日本紀』、11年以後は『日本後紀』に分かれている。このうち『日本後紀』は、全40巻のうち10巻しか現存しておらず、延暦13.、14年の征夷の部分も欠落していて、『日本紀略』や『類聚国史』に収録された逸文によって史実を復元するしかない。延暦13年・20年の征夷には、名高い坂上田村麻呂が活躍しているが、具体的なことは史料の制約のためほとんどわからない。
*
*
*

0 件のコメント: