昭和16年(1941)9月7日
九月七日 日曜日 秋風凉爽。銀座夜歩。
街頭の集会廣告にこの頃は新に殉国精神なる文字を用出したり。
愛国だの御奉公だの御國のためなぞでは一向きゝ目なかりし故ならん歟。
人民悉く殉死せば残るものは老人と女のみとなるべし。呵々。
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9月8日
・九月八日。風すゞしく萩の花散る。黄昏土州橋。淺草に飰す。
東武鐡道淺草驛及上野停車場の出入口には大根胡瓜など携へたる男女多く徘徊して、争ってタキシに乗らむとするを見る。
市中野菜拂底なれば思ひ思ひに近在へ出掛けるものなるぺし。
日本の食事にお茶漬に香ノ物を味ふことはむかしの夢とはなりしなり。
戦争の災害如何ともすべからず。
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9月9日
九月九日。晴。淺草公園の内外には食料品鑵詰類他處に比して割合に多く残りてあり。夜煮豆買はむとて行く。
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9月10日
九月十日。夜來秋雨瀟々。終日霽れず。鄰家のラヂオも點滴の響に遮られて甚しく人を苦しめず。虫聲晝の中より聞ゑて秋の日漸くなつかしきものになりぬ。燈下舊年の日誌を筆寫して副本をつくる。
此日郵便物中報知新聞社より書を需め來れる手紙あり。之によりで三木武吉なるもの同社の長となれることを知りぬ。野間誠(ママ)治死後それを継ぎしものにや。三木は世人既に知れるが如く神楽坂の待合松ヶ枝の亭主にして嘗て東京市役所の疑獄に連坐せしもの。乃ち刑餘の罪人なり。而して公然新聞社の長となれり。
社會道徳のいかに敗頽せるやを知るに足るぺし。然れどもまた思ふに三木の輩は要するに舊時代の政治ゴロに過きず。之を今日の尊獨愛國者の危険なる策畧に此すれば尚恕すべきものあり。
今日世界人道の為に最恐るべきものはナチス模倣志士の為すところなり。
其害の及すところ日本國内のみに留まるにあらざればなり。
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9月11日
九月十一日。秋霖霏々。日本橋通に食料品をあさる。
この頃家に在るも訪問者來らず街上を歩むも知人に逢はず。
閑適最もよろこぶ可し。
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9月12日
九月十二日。あたり全く暗くなりて後門を出でむとするに、木斛(もつこく)の葉のしげりたる梢に蛼の鳴きしきるを聞く。蛼は床の下または草の中にのみ鳴くものと思ひゐたれは怪しみて傘にて枝を打つに聲忽止みしが酢臾にしてまた鳴出せり。耳を澄して聞くに雨蛙または其他の虫の聲にはあらず蛼に相違なきが如し。世には不可思議なる事もあるものなり。
芝口に至り金兵衛に夕飯を喫す。到来物なりとて長命寺の櫻餅を出しぬ。砂糖少き世には滅多に得がたき珍羞といふぺし。
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9月13日
九月十三日。牛後房渚子來訪。夜共に淺草に至る。晩餐を鳥屋金田にて喫せむとするに客室なしと言ふ。
廣小路の松喜に上る。女中のはなしに半年ばかりの間にお客様の種類全く一變したりと。
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9月14日
・九月十四日 日曜日 乍雨乍晴。家に在り。タゴールの詩集をよむ。
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9月15日
・九月十五月。微雨午後に霽る。岩波店員來話。平井氏來話。夜淺草より歸るに深夜十二時近く電報來り鷲津伯父病みで歿すと云。安政二年乙卯の生れなれば八十七歳になられしなり。西大久保の親類と面晤することをおそれ吊問には赴かず。余一人だけにて其中窃に谷中の墓地に赴き心ばかりの手向すべし。
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9月16日
九月十六日。早朝兼てたのみ置きたる経師屋職人來り勝手口の障子襖の張替をなす。暮方より俄に雨ふり出で新寒肌を侵す。今年の冬は寒気甚しきが如し。
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9月17日
九月十七日。二百二十日の空模様にて雨やまず。近鄰晝の中より静なること夜の如し。世間一帯に疲労困憊の極に沈めるものゝ如し。
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9月18日
九月十八日。秋霖霽れず既に袷の時候なり。水天宮門外に漬物屋二軒並びてあり。いづれも品物あしからず。人の噂に梅干もよき物はやがて品切となるぺければ今の中蓄へ置くがよかるぺしと云ふに、今夕土州橋まで行きたれは立寄りて購ひかへりぬ。
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「★永井荷風インデックス」 をご参照下さい。
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