2011年11月20日日曜日

大同5年・弘仁元年(810) 蔵人所の設置 薬子の変

東京 北の丸公園(2011-11-18)
*
大同5年(810) 
・この年、嵯峨朝は班田収授を京畿内に実施。
*
・この年、公出挙利率を3割に戻す。  
*
1月
・嵯峨天皇が前年末に発病し、元旦の恒例の朝儀を中止する。
病気は中間に小康をはさんで、7~8月に再び悪化する。
*
2月
・嵯峨天皇、前年9月に中納言になったばかりの藤原園人を大納言に起用して台閣を強化する。
*
3月
・嵯峨天皇、蔵人所を設置し、巨勢野足(こせののたり)藤原冬嗣とを蔵人頭に任じる。

薬子が、詔勅の発布に関わる尚侍(ないしのかみ、女官の長)の職にあり、嵯峨天皇側の秘密が事前に平城上皇側に漏れる事態になる。
これを防ぐため、天皇の秘密を守り詔勅の発布に関与できる蔵人所を設置し、天皇から太政官への勅命下達のルートを確保した。
蔵人頭は、これまで朝廷に存在していた蔵人の統轄者を新たに任命したということではない。
蔵人を擁する機関が、既存の太政官・八省の枠組の外に、天皇に直属する関係において創設された。
蔵人所の官人は、天皇に近侍して機密の記録・文書を保管し、執奏・伝宣にしたがい、宣旨形式の法の公布に関与し、常に天皇と諸大官の間を奔走する、謂わば天皇個人の耳目のようなものである。
その頭(とう)の政治的役割は、天皇との関係から極めて重く、これ以後、藤原氏はその勢力伸張の為の拠点の一つとしてゆく。
*
4月
・前年大同4年10月1日に来航した渤海使の一行(大使:高南容)は、この年4月8日に帰国。
5月27日、首領の高多仏が一行を離れ、越前国に留まったというので、越中国に安置し給食し、史生の羽栗馬長と習語生を高多仏につけて「渤海語」を習わせた。
*
6月末
・平城上皇、かつて大同2年4月に参議に代えて自ら設置した観察使を廃止し、参議を復活する旨の詔を嵯峨天皇の同意抜きで渙発。
上皇に随っている薬子は、詔勅の発出に携わる尚侍(ないしのかみ)の職に任じられており、かつ当時上皇は詔勅を出すことが認められていた。
(嵯峨天皇の詔による措置であるとの説もあり)
*
7月中旬
・嵯峨天皇、再び病臥し、ほぼ1ヶ月続く。朝廷は天皇の平復のために、早良、伊予、吉子(伊予の母)のために夫々100人、10人、20人の度者(どしや、得度した者)を定める。
嵯峨もまた怨霊に怯えていた
*
9月
・空海、最澄宛て書簡。
最澄、室生の修円と共に集まり「仏法の大事因縁を商量し、共に法燈を経て仏の恩徳に報ぜん」ことを呼びかける。実現したかは不明。
*
9月6日
薬子の変
平城上皇、平城京への遷都命令を下す。
上皇が国政を動かせる権利を持つと宣言したようなもの。
『日本後紀』は、これを「二所朝廷」(2ヶ所の朝廷)と表現している。
「遷都の事に縁(よ)りて、人心騒動す」とある(『日本後紀』)。  
*
9月6日
・嵯峨天皇、腹心の坂上田村麻呂・藤原冬嗣らを造宮使に任命して平城宮に派遣。平城への協力を装いつつ、その動きを封じ込めようとする。
10日、田村麻呂は大納言に昇進。  
*
9月10日
・嵯峨天皇、薬子の尚侍の官を解任し、平安京に滞在していた参議仲成(薬子の兄)を逮捕し、右兵衛府に監禁。
一方、伊勢・近江・美濃に使節を派して、もとの関と三国とをかためさせる。使者は、現地で健児を中心に兵力を徴発したと思われる。
*
9月11日
・朝廷は密使を平城宮に送り、若干の大官を召致。
この日、藤原真夏(まなつ)、文室綿麻呂(ふんやのわたまろ、46歳)らが帰来し、綿麻呂は左衛士府に拘禁される。
大外記の上毛野穎人(かみつけのえいひと)が平城宮から戻り、「太上天皇(平城)今日の早朝川口道を取りて東国に入れり。凡そその諸司並びに宿衛の兵悉く皆従いぬ」という情報をもたらす。

文室綿麻呂:
賜姓(しせい)皇族出身の武人。
祖父の智努(ちぬ)王は天武天皇の孫で、文室真人(ふんやのまひと)の姓を与えられ浄三(きよみ)と名乗る。
父の大原は延暦10年に陸奥介兼鎮守副将軍として陸奥に赴任。
綿麻呂も延暦20年に出羽権守となり、同年の第3次征討に参加、論功行賞の日の同年11月7日に正五位上を授けられる(『公卿補任』大同5年条)。
第2次征討の論功行賞の日の延暦14年2月7日に従五位下を授けられており、第2次征討にも参加していたと推測できる。
つまり、延暦13年・20年の2度、坂上田村麻呂のもとで征夷に参加したことになる。延暦15年10月近衛将監、同22年5月近衛少将となり、桓武天皇の信頼も厚かった。

嵯峨天皇は、穎人の密告に接するや、大納言坂上田村麻呂らに命令を下し、「軽鋭卒」を率い、美濃路から東国に入ろうとする上皇の軍を要撃させることにする。
その際、田村麻呂は、天皇に対して拘禁中の綿麻呂の起用を嘆願。
嵯峨はそれを容れ、綿麻呂に正四位上を授けうえで参議に抜擢し、田村麻呂に同行させる

他方で、朝廷は、宇治・山崎の両橋と与渡津に屯兵を配置し平安京の南と西を防備。
更にその夜、朝廷は官人を遣わして、仲成を禁所において射殺させる。
*
9月12日
・平城上皇は、自ら東国に赴き軍を組織し反撃しようと考え、畿内諸国と紀伊国の兵を動員するために急使を出発させる。
中納言藤原葛野麻呂・左馬頭同真雄(まお)らは上皇に対し東国入りを思い止まるよう諌めるが、上皇は、薬子と共に駕に乗じて平城宮から進発。「陪従(ばいじゆう)人等周章して図を失う」有様であったという。

上皇らが大和国添上郡越田村(奈良市帯解付近)に至ると、朝廷の武装兵が前方を遮っていた。
上皇はやむなく平城宮に引き返し、剃髪し出家
薬子は服毒自殺を遂げる。

変の原因・背景
藤原薬子とその兄仲成が、早々と退位した平城上皇を焚き付けて復位を図り、併せて自らの権勢を張ろうとした。
一旦譲位した天皇が再度即位することは、斉明天皇の例や称徳天皇(孝謙天皇の重祚)の例がある。
*
9月13日
皇太子高岳(たかおか、平城の皇子)を廃し、中務卿三品大伴親王(嵯峨天皇の異母弟、後の淳和天皇)を皇太子にたてる。
この時、嵯峨天皇自身には持ち駒はなかったが、同年内、橘嘉智子(たちばなのかちこ)を母として正良(まさよし)親王(後の仁明天皇)が誕生。

尚、高岳親王は、後に仏道に帰依して入唐し、さらに天竺国(インド)への求法を志したが、その途中、羅越国(シンガポール付近)で没したという。

この日の詔では、嵯峨天皇は上皇の反逆に触れるのを避け、「太上天皇を伊勢に行幸せしめたる諸人(もろびと)等」(東国行の企ては臣下によるものと述べている)に対しても寛大な措置をとる旨を明らかにしている。
左遷された人々には2人の参議(右大臣内麻呂の長子真夏と多入鹿(おおのいるか))がいる。

上皇の王権への反逆の罪を追及せず。
平城上皇は51歳まで生き天長元年(824)7月に没。

平城上皇の変によって平安京の人々がひどく動揺し、不安の様相を呈す。

この年、皇居を警備する六衛府のうち、左・右近衛府の定員を旧に復して各400人とし、翌年には左・右衛士府、左・右兵衛府の定員を、夫々600人、400人の旧制に戻して常備兵力を確保しようとした。
*
9月16日
・文屋綿麻呂、陸奥出羽按察使に任命される。東北政策の最高責任者が、征夷中止を主張した藤原緒嗣から、「武芸の人」である綿麻呂に交替。
*
9月19日
「弘仁」に改元
*
10月
・空海、朝廷に上表文(『国家の奉為に修法せんことを請う表』)を提出。
これは空海請来の護国経典『仁王経』『守護国界主経』『仏母明王経』などによって、薬子の変に揺れた深刻なこの時期、諸弟子を率いて国家安泰の修法を行う許しを請うもの。
和気氏の庇護もあり許されて高雄山寺でそれを行う。

また、この年、空海は東大寺別当に任ぜられ、その地位において南都の僧たちへの感化を深めていく。
空海は、最澄の論敵徳一とも交友の間柄である。

以後、空海はここに灌頂の壇を創設し、最澄ら多数の僧侶に真言の灌頂を授ける。
最澄はその門下と共に、すすんで後輩の空海に近づいて密教について学び、またその請来した典籍を借覧した。
2人は、宗旨は異なるものの、あい携えて新宗派宣布のために活動する。

しかし、最澄と空海の交友関係は、数年のうちに冷却の状態に陥る。
空海が、最澄から求められた典籍の借覧に応じず、また、空海のもとで修行していた最澄の弟子泰範が、比叡山寺に帰ることを拒み真言の徒となることがおこる。
弘仁7年(816)、最澄は憤懣のうちに空海との7年の親交を絶つ。
嵯峨天皇も和気氏も、2人の不和をとりなした形跡はない。
*
*

2 件のコメント:

匿名 さんのコメント...

俺は名古屋の特殊鋼流通の不透明さに頭にきている。
たらい回し、最強だけを叫ぶ大同、こういうとこから
特殊鋼仕入れていると未来はない。

匿名 さんのコメント...

同感、大同談合で最強なんだとか。