2011年11月28日月曜日

永禄11年(1568)7月~8月 足利義昭、越前(朝倉氏)から美濃(信長)に移る [信長35歳]

東京 北の丸公園(2011-11-25)
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永禄11年(1568)
7月
・この月、武田氏が相模早川の海蔵寺僧に与えた伝馬口付銭規定による甲府~木曽福島の使用伝馬一疋の口付銭。
甲府~台原(40文)~蔦木(15)~青柳(30)~上原(14)~下諏訪(15)~塩尻(15)~洗馬(40)~贄川(18)~奈良井(12)~屋子原(藪原、12)~福島(18)。

後の甲州街道~中山道の道筋に宿駅が設けられ、伝馬が常備されている状況が明らかになる。
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・信長、足利義昭上洛供奉のため武田信玄と和を申し合わせ。
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上旬
足利義昭、朝倉義景の了解を得て美濃への動座準備
10日、入洛を後援するという信長からの使者(村井貞勝ら)を迎え、13日、一乗谷出発。
16日、浅井長政居城小谷城に立ち寄り饗応を受ける(信長が妹婿浅井長政に道中警護を依頼)。ここで、明智光秀の出迎えを受ける。
22日、美濃へ移る。
27日、美濃西の庄立政寺到着。
29日、信長、立政寺出仕。

信長と義景による義昭争奪戦:
「綿考輯録」によると、細川藤孝が義景による義昭帰洛を勧め、義昭は評議の上、浅井・三田村・和邇・堅田・朽木・高嶋・武田義頼から兵2万3千余を集め、6月18日出陣と決まる。
この時、加賀・能登・越中一向一揆の留守中蜂起の情報が入り、藤孝は顕如と談判、義景娘を教如に嫁す約束をして戻る。
しかし、6月5日、義景嫡男阿若丸が急逝(毒殺?)し、義景は次第に物事が疎かになる。
藤孝と上野清信が義昭使者として岐阜に赴き、光秀の取次により信長に面会、信長は義昭の岐阜動座を勧める。
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7月5日
・宇喜多直家、金川城松田元輝の属将伊賀久隆(津高郡虎倉城主、直家の妹が嫁ぐ)と謀り、松田氏を攻略。元輝・長男元賢(直家娘婿)討死。
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7月10日
・武田信玄、本庄繁長(もと上杉輝虎家臣)を援助するため信濃国飯山城を攻撃。
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7月11日
・細川昭元、下京諸商人に魚公事銭を拘置させる(「京都大学氏所蔵文書」)。
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7月12日
・足利義昭、上杉輝虎へ、信長より岐阜移座を要請され近日中に発足する、朝倉義景はこの件で悪感情を有していないと通知。
同日、京都本能寺へ禁制を下す(「本能寺文書」)。  
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7月12日
・武田信玄、越中一向一揆の勝興寺顕栄に書状を送り、上杉方の越中松倉城主椎名康胤が、武田信玄の調略を受け、一向宗と結び上杉輝虎から離反し敵対していた神保氏と和睦したので、謙信の乱入に備えるよう通告。
16日、同寺宛て書状で、越後の本庄繁長が信玄の調略により挙兵したので、椎名氏と同調して越後侵攻を求める。
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7月25日
・信長、足利義昭を将軍として奉戴するため、義昭の滞在する越前へ迎えの使者(和田惟政・不破河内守光治・村井貞勝・島田秀順ら)を出す。
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7月25日
・フランス、カトリック同盟の成立。
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7月26日
・大和興福寺、三好康長に寺門領押領を愁訴するため珎蔵院・吉祥院を河内へ派遣(「多聞院日記」2)。
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7月28日
・京の烏丸での踊りに、40~50人の踊り衆に10人余の公家衆が混ざる(「言継卿記」同日条)。
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7月29日
信長、足利義昭を美濃西庄の立政寺(現岐阜市西荘内の立政寺)に迎える
座所の末席には銭や太刀・鎧・武具・馬などの進物が積まれ、家来衆もそれぞれ盛大な歓待を受ける。
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7月29日
・信長、上杉輝虎へ書簡。
織田・武田間は和睦成立、武田信玄・徳川家康間は相互に侵略しない「契約」が成立、「越甲(上杉・武田)間」が和睦して「天下之儀」に尽力するよう願う。
また、越中での一揆蜂起と上杉方神保父子の様子を尋ね、信長も心配していること述べる(「志賀槙太郎氏所蔵文書」2)。
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8月
・信長、美濃瑞龍寺へ全5ヶ条の「禁制」下す(「瑞龍寺文書」)。
近江柏原成菩提院へ全3ヶ条の「禁制」下す(「成菩提院文書」)。
近江多賀神社へ全3ヶ条の「禁制」下す(「多賀神社文書」)。
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越前朝倉氏、若狭進攻
若狭守護武田元明は越前へ拉致(保護)。若狭中心部は朝倉氏支配に入る。

武田氏を支援して三方郡の粟屋勝久らを攻める越前朝倉氏は、遠敷郡に兵を進め、遠縁の元明を越前へ救出。
8代約130年続いた武田惣領家による若狭支配は事実上終る。
若狭はこの時点で形の上で将軍支配とされ、遠敷郡賀茂荘本所方について森尊久の知行を妨げないよう白井氏や当所名主・百姓に対し、また寺領安堵を求める神宮寺に対し、幕府の奉行人連署奉書が発給されるようになる。
国内は、将軍支配となった為、元明を立てて朝倉氏が支配することもでず、依然混乱状況が続く。

その後の若狭:
元亀元(1570)年4月、信長が朝倉氏攻撃のため若狭へ下向すると、多くの武田氏被官人がこれに従う。
天正元(1573)年8月、義景滅亡後、若狭は丹羽長秀に与えられる。
元の守護武田元明は一乗谷から若狭へ帰国、粟屋勝久らかつての被官人の嘆願により信長から赦免され神宮寺に蟄居。
天正9年、逸見昌経没後、彼の所領大飯郡のうち3千石を与えられる。
天正10年6月、本能寺の変後、明智に加担し、丹羽長秀の佐和山城を攻略。
このため、明智滅亡後、丹羽長秀に海津に呼び出され、7月19日、自害を強いられる。若狭武田氏滅亡。
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・夏、オラニエ公ウィレム1世、フェリーペ2世に対する非難声明。
ネーデルラントの騒擾原因は異端審問・数々の勅令・新教徒迫害・新しい司教の任命にある。  
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オラニエ公ウィレム1世、ネーデルラントに侵入
兵力を4分(南と東と北から侵入。オラニエ公自身は第4軍を率い国境で待機)。


①南軍(フランス国境よりの侵入軍)2,500、スペイン軍に簡単に打ち破られる。逃げ延びた兵士400、捕虜は全て絞首刑。


②東軍(ラインとマースの間から侵入)歩兵3千と騎兵。期待した市民蜂起なくスペイン兵1,600に襲われ潰滅。残兵1,300、退却しながら堅固な地形に立て籠もる。スペイン兵600、全員を斬殺叉は捕虜(スペイン兵損害20)。


③北軍(フリースラントに侵入)ウィレム弟ルイとアドルフ、少数の手勢で侵入。フローニンゲンより市を攻略しない代償に資金供給、志願兵・傭兵で解放軍編成。
アルバ公、アレムベルフ伯2,500、メーヘン伯1,500を派遣、北上中に5千に膨れ上がる。
アレムベルフ伯、功を焦ってメーヘン伯到着前に攻撃開始、スペイン軍敗北(沼地に迷い込み、反乱軍の包囲攻撃で潰滅)。
アレムベルフ伯、突撃。騎士道の作法によりアドルフと一騎打ち、2人共戦死。
アルバ公、兵力12千で北上。
ルイ反乱軍、出撃、死者7千の大敗北(スペイン軍7人)。
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8月2日
・信長、近江甲賀諸侍へ、足利義昭入洛の件で信長は供奉命令を受けていること、5日に進発するが、近江通過は困難であり信長への協力を依頼。
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8月5日
・信長、岐阜城下に5万の大軍集結。
7日、250連れ佐和山城へ出発。近江守護六角入道承禎処遇を浅井長政と相談。
六角に協力要請するも既に三好三人衆側についており拒否。信長は攻撃決意。
7日間の交渉後、岐阜に戻る。
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8月9日
・吉川元春、下関長府一の宮に戦勝の願文を捧げる
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8月16日
・この日付けの栗原伊豆守宛ての武田勝頼文書に、「駿陣触れ」「日付を差し越され候」とあり、駿河侵攻が日程に上がっていることが窺える。12月6日侵攻。
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8月17日
・山科言継、三好長逸・三好政康・岩成友通ら三好三人衆が近江観音寺の六角義賢(承禎)のもとへ赴いた事を知る(「言継卿記」4)。
三好三人衆の使者、大和興福寺成身院で多聞院英俊らと参会(「多聞院日記」)。
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8月18日
・松永久秀軍、山城国富野城で敗北。
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8月21日
・佐久間信盛、柳生宗厳へ、信長上洛は近江の情勢が不安定であり延引しているが、松永久秀と相談して準備の出来次第上洛するので尽力を期待すると通知。
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8月22日
・大友宗麟、マカオ滞在中のドン・ベルショール・カルネイロ司教に、大砲の贈与を求める書状を送る。永録初年にも。2度ともに大砲が積んだ船が遭難。
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8月24日
・フランス、第3次ユグノー(宗教戦争)開始(1568~1570)
ルイ・ド・コンデ親王、コルニー等のユグノー派首脳、ラ・ロシェルに籠城。
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8月29日
・信長、朝倉義景へ足利義昭入洛に供奉するため武田信玄と和睦した旨を通知。  
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