2011年12月19日月曜日

承和3年(836) 陸奥国奥郡の騒乱 承和の遣唐使(この年は失敗)

東京 北の丸公園千鳥ヶ淵(2011-12-12)
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承和3年(836)
1月
陸奥国奥郡の騒乱
この年・承和3年(836)~7年、斉衡元年(854)~2年、大規模な騒乱が発生。
騒乱が発生した地域は、「奥邑」「奥県」と呼ばれる黒川以北の奥郡で、移民系住民と蝦夷系住民が雑居する地域。
奥郡の騒乱は、長年にわたる征夷政策の中で敵対させられ、分割支配されてきた「民」(移民系住民)と「夷」(蝦夷系住民)の対立が表面化したもので、征夷政策の後遺症と言うべきもの。

『続日本後紀』承和4年4月癸丑条にある鎮守将軍匝瑳末守(そうさのすえもり)の報告
去年(承和3年)春から今年の春に至るまで、百姓(移民系住民)が妖言(ようげん、人を惑わす流言)をして騒擾が止まず、奥邑の民が住居を捨てて逃げ出しており、また栗原・賀美両郡の百姓に逃出する者が特に多い。

報告を受けた陸奥出羽按察使坂上浄野は、栗原・桃生以北の俘囚に控弦(こうげん、武装した兵)が多く、国家への反復も定まらず、もし非常事態が発生すれば防御しがたいことから、援兵1千人を徴発して派遣することを決定し、その事後承諾を中央政府に求める。
援兵は陸奥国の南部から徴発され、胆沢城などに派遣されたと考えられる。

武装した俘囚の脅威のため奥郡の百姓(移民系住民)が逃亡している。
百姓の間で飛び交っていた「妖言」は、近々俘囚が反乱を起こすという噂のこと。
同じく奥郡の騒乱に関する記事は、他に承和6年4月、承和7年3月に(『続日本後紀』)、10数年後の斉衡元年4月、斉衡2年正月に見られる(『日本文徳天皇実録』)。

史料ではよくわからないが、陸奥において「民」「夷」の間で様々な軋轢があり、国司の苛政、交易を巡る国司・王臣家との対立もあったと想定される。
このような場合、蝦夷は所管の国司や鎮守府官人に提訴することができる。

しかし、蝦夷が国司・王臣家を訴えても、国司が裁定を下すので、蝦夷の主張が通ることはあり得ず、「民」「夷」の対立を国司が裁定する場合でも、蝦夷側に有利な判決が下される可能性は低い。
従って、蝦夷が国司の苛政や不公正を訴える相手は、中央政府しかなく、陸奥の蝦夷は入京越訴するしか道はなかったと思われる。

しかし承和2年12月、国司が発行する過所(かしよ、通行証)がないと白河・菊多関を通過できなくなり、入京越訴は不可能となった
そこで彼らは残された闘争の方法として、武装して国司の支配を拒否するようになった
それを反乱の前兆とみて民衆が逃亡し始めたのが奥郡の騒乱であった。
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4月29日
・遣唐大使藤原常嗣、節刀を与えられる。
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7月
承和の遣唐使
遣唐大使は藤原常嗣(延暦度の葛野麻呂の子)・副使は小野篁。

30年ぶりに博多津を出立するが、第1、2、4船は肥前国に漂着。第3船は船体を分断され、乗員140余のうち水夫ら28人が板きれにつかまって生き延びた。
そのなかには、空海の弟子真済(しんぜい)・真然(しんねん)も含まれていたが、不吉として留められ、代わりに円行や常暁が加わる。

翌承和4年7月、再度渡航、再度失敗。
承和5年6月、再々度渡海でようやく成功

政府は、派遣に先だって、遭難した場合の保護を求める使者を新羅に送ったところ、その使者に対する返答で、新羅は自らを「大国」と称し、遣新羅大使紀三津(みつ)のことを「小人」と呼んだ。
新羅は日本を対等と認識するようになっている。
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9月14日
・遣唐大使藤原常嗣、帰京。節刀を返還。
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2 件のコメント:

0122 さんのコメント...
このコメントは投稿者によって削除されました。
0122 さんのコメント...

初めまして。突然の投稿失礼致します。歴史を勉強している者です。
当時の東アジア諸国と日本との関係に関する詳細が分かり、大変勉強になりました。
ご投稿内容の一次史料をお教えいただけるとありがたいのですが、ご存知でしょうか。

※度々のコメント投稿失礼致しました。一度目の投稿に誤字を見つけたため、一度削除させていただきました。