2012年7月4日水曜日

天慶9年(946)4月 朱雀天皇(24)が譲位、弟の成明親王(21歳、村上天皇)が即位

東京 江戸城(皇居)東御苑 2012-06-05
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天慶9年(946)
この年
・契丹が国号を遼に改める
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・後晋が滅ぶ
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・天慶の末年、濫悪の輩を抑圧するため、多くの国に検非違使が新設された。
隠岐、和泉、丹波、紀伊など。
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・この年の大宰府とその周辺の状況
管内の「遊蕩放縦の輩(国司の子弟だけではなく)、みだりに威権を仮りて、多く党類をなして、兵器を練り、人馬を聚養(しゆうよう)し、或いは言を田猟に託し、或いは事を負債に寄せて、郡司を威劫し、民庶を圧略し、妻子を凌辱し、牛馬を奪掠し、もつてかの産業として、己が利潤となす。・・」という。
中央政府の眼に映じた「遊蕩放縦の輩」は、律令的秩序をふみにじる無法者、具体的には土着した受領の後裔などを指している。9世紀の前介中井王の社会的系譜に連なる者が強大に成長していた。彼らは、農民たちの調・庸・租税を先取りしただけではなく、稲を貸し付け暴利をむさぼった。これらの無法者は、郡司を威劫するだけの権威(前受領としての)と武装した実力を備え、農民を圧迫していた。
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1月7日
・右大臣実頼、従二位となる。
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4月
朱雀天皇(24)が譲位し、成明親王(朱雀の弟、21歳、村上天皇)が即位する。
朱雀の生母、穏子のまわりに東宮妃安子の父であり東宮の即位を待ち望む師輔がいる。
師輔が種々の手をうち、朱雀退位への圧力となったと考えられる。
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5月4日
・右大臣実頼、蔵人所別当となる。
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天慶10年/天暦元年(947)
この年
・赤斑瘡(あかもがき、麻疹)が流行する。
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・後漢の建国。
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・天暦元年の初め、伯耆で騒動
伯耆守の急報によれば、藤原是助というものが、「四百余人の兵卒」を率い百姓物部高茂とその息の忠明らの家を焼き払った。
是助は土着化した受領の末裔と推測できる。この事件は、在地での仲間の争いと考えられるが、朝廷は、官符を伯耆・因幡・出雲・美作4国に下し、是助らへの対策を命じる。

数ヶ月後、伯耆守は、前司忠明(さきのつかさただあきら)が賀茂岑助(かものみねすけ)を殺害したと報告。前司は前の事件の被害者と同名。同一人物だとすれば、忠明は父とともに百姓と書かれているが、まさしく土着した前受領ということになろう。前司によって殺された賀茂岑助は、藤原是助の一味であったのかもしれない。こうした想定がなりたつとすれば、この事件は土着した受領の末裔の在地での縄張り争いということになる。
坂東において承平・天慶の大乱となった底流が、山陰にもうずをまいて時代の風潮を告知していた
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1月
・この月、村上天皇は綾綺殿(りようきでん)で内宴を催す。列席者は、式部卿敦実(あつさね)親王、文雅をもって知られた中務卿重明(しげあきら)親王、右大臣(実頼)以下の諸卿。
宴は管絃の遊びに移り、勅によって重明親王は琴を弾じた。
内宴は翌日の暁に及ぶ。
席上に大江維時ら文人12人が集められた。天皇は中納言藤原元方・左大弁同在衡に詩題の提出を命じ、元方の出題の「花気春風を染め、鶯声管絃を聴く」を採用して文人12名に競作させた。この内宴においては詩賦は余興にすぎず、文人の役割は多分に幇間的であった。
そして、王朝人の詩への好みに、気宇の壮大さが失われ、日常身辺的になった。題材・内容・気分からいって、それは『古今和歌集』に凝集した歌の持ち味に近い。詩と歌は宮廷人の消閑の具にすぎなくなった。
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