1900(明治33)年
6月
漱石、熊本市北千反畑町の旧文学精舎跡に転居。
6月
子規庵での蕪村句集輪講会始まる。
6月
永井荷風(23)、榎本破笠の手引きで歌舞伎座の立作者福地桜痴の門に入り作者見習いとして拍子木を入れる勉強を始める。
6月
金光教の神道からの独立許可。
6月
パリ、オーギュスト・ロダンの彫刻展開催。
6月1日
ドイツ軍(将校1・兵50)、2日オーストリア軍(将校3・兵30)、北京着。
6月1日
憲政党幹部ら、伊藤博文と会見、党首就任を要請。伊藤は7月8日に新党組織を示唆。
第14議会後、憲政党星亨は、提携の代償として閣僚の入党もしくわ党員の入閣を要請するが、山県はこれを拒否。星は、山県との提携を打ち切り、次期政権への参加を意図して伊藤との提携を求める。
山県との提携断念の翌日、星らはかつて伊藤と自由党との媒介的役割を果した伊東巳代治の示唆により伊藤を訪ね、空席の党総理就任を要請。しかし伊藤は自分の本意は既成政党の宿弊を矯正する為の新政党結成にあるとして、その要請を断る。そこで星は、党勢を拡張し政権に接近する為、憲政党を無条件に解党し、その上で伊藤新党への合流を決意する。伊藤は前年1899(明治32)年春以来伊藤系官僚出身者を中核とし、都市商工業者階級を支持層とする党組織を考え、支持層の点では星の志向と合致。そして、星との折衝の結果、憲政党地盤(地方農村中心)の取入れが自己の政治的目的に有利と考える。
伊藤の政治目的は、日清戦争以来一貫して政党勢力を組み込んだ「挙国一致体制」創出にあり、新政党組織はその為の手段である。こうした「挙国一致」体制の主張は、日清戦争後の極東国際情勢に対する危機感を発条として正統派超然主義者の間に唱えられる。
二大政党の一つの憲政覚が新党参加意思を示したことで、伊藤の新党構想はにわかに具体化。伊藤は官界・実業界からの参加を容易にする為、本部・地方の組織をクラブとしてルーズな集団にする考えであったが、星らが統制取れぬと反対し、本部・支部組織にすることになる。
6月2日
行政執行法公布。行政官庁に、泥酔者などの緊急検束、危険物件などの仮領地、土地物件の使用処分などの権限を、条件付きで付与。
6月3日
子規、本郷金助町の岡麓宅へ出向く。岡が前年新築した家の披露を兼ねて園遊歌会を催した。長塚節ら根岸派のほぼ全員、30人がつどう。
6月3日
第2次フィリピン委員会(タフト委員会)委員、フィリピンに到着。
6月4日
長塚節と岡麓、子規庵を訪れる。
6月4日
拳民2千、宣化府を襲撃。教民側は銃で防衛、拳民は退散。教会側死者3・負傷4~5。永寧鎮の教会・教民の家は全て焼かれる。
6月4日
工業試験所(のちの東京工業試験所)創立。
6月5日
清朝、軍機大臣趙舒翹と都察院左副都御史何乃瑩を、琢州へ派遣。
翌6日、西太后、協弁大学士剛毅を琢州へ派遣。この時点では、義和団を利用して列強と決戦することでも、列強の要求に屈して義和団を鎮圧することでもなく、まずは解散を指令する計画。
6月6日
義和団、沿線住民に呼び掛け、応援兵阻止のため京津線(天津~北京)鉄道・鉄橋破壊。落垈駅を襲撃。聶士成軍と衝突。兵数十・団員100余死傷。
孤立状態となりつつある北京で第6回公使会議。清帝・西太后に対し、清国政府が義和団を鎮圧できなければ列国は自ら武力をもってあたる旨、奏聞することを提議。
6月6日
関西鉄道、大阪鉄道を合併。
6月7日
義和団、北京東郊の通州のアメリカ公理会牛保屯郷支会の教会、放火、信者10数人殺害。
8日、アメリカ公理会の外国人男女宣教師・医者・数人の中国人信者、北京の公使館に避難。教友280人中142人が殺害。
6月8日
午後、協弁大学士剛毅、軍機大臣趙・都察院左副都御史何に追いつく。趙は義和団を「乱民」と見て、剛は「義民」と見る。剛の見解は義和団員を鼓舞し、北京・天津をとりまく河北省全体の義和団運動は高揚。
北京在住の西公使、青木外相に対し陸戦隊・巡洋艦の派遣要請。青木外相は、英国公使の措置に合同せよと訓令、日本政府は正式に列国と共同して軍事的に対応することを決意。
6月8日
カナダのホワイトパス・ユーコン鉄道完成。
6月9日
西太后、董福洋の甘粛省軍隊(甘軍)を城内警備につける(この甘軍が公使館攻撃の主役)。
この日、義和団、北京西郊競馬場スタンド焼打ち。また、通州では新士成南門の教会焼打ち。天津南郷、数万の義和団集結。
午後8時30分頃、米公使コンガーと英公使マクドナルド、夫々独自の判断で大沽の海軍基地に増援派遣要請。
増派要請を知り、深夜~10日朝方まで午前会議。総署(外務省)首席大臣慶親王奕劻に代り端都王に代り、満州人3名が総署大臣に任命。対列強諸国主戦派が台頭。
6月9日
宮崎滔天(29)、横浜港からフランス船インダス号で香港に向かう。帰国する孫文も同行。
6月10日
軍機大臣趙は北京に戻り実情報告。協弁大学士剛・都察院左副都御史何は琢州に向う。この頃、琢州城占領の義和団の要求に依り、協弁大学士剛毅は、聶士成軍の楊慕時の軍隊を撤退させる。
第2次出兵。朝6時、大沽港内連合軍1500余、上陸。朝9時、英東洋艦隊司令官エドワード・シーモア海軍中将率いる8ヶ国連合軍第1陣800、天津から北京に向かう。
入京阻止図る義和団の鉄道破壊・攻撃のため、25日天津に戻る。死者62・負傷228。
北京外交団、天津との連絡を絶たれる。
20万人の義和団が北京に入城
6月10日
子規庵句会。20人が来会。
6月11日
早朝、北京の公使館員、北京5~6kmの馬家堡までシーモアの援軍を出迎えるが、鉄道破壊により到着せず。正午まで待って引上げる。
午後5時頃、日本公使館員杉山彬書記官、列車の状況を見に行き、永定門外で董福洋の騎兵に訊問され殺害。
この頃、北京城内、数万人の義和団集結。
6月11日
岡麓と桃沢茂春(もしゆん)が子規庵を訪れる。
つづく
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