1900(明治33)年
11月
坪内逍遙、綱島梁川編「近松の研究」(「春陽堂」)1
11月
普通選挙期成同盟会、普通選挙同盟会と改称。
11月
子規、静養のため、子規庵での句会、歌会を中止。この頃、子規は寝返りも困難になってきた。
11月
ボーア軍、ゲリラ戦開始。
11月
仏、アルジェリア内で領土拡大。
11月1日
「労働世界」第67号、「高野房太郎氏は去る五日天津より帰り、直ちに北清貿易会社を設立し、再び渡清せしよし」。
11月1日
~2日 漱石、ケンブリッジに赴くが、ここでの研究は断念。
「十一月一日(木)、テムズ河北岸の近くの Liverpool Station (リヴァプール駅)から、午後十二時四十分の汽車で、 Cambridge (ケンブリッジ)に赴き、午後一時、 Mrs. Nott (ノット夫人)の紹介状を携えて Cambridge University (ケンブリッジ大学)の Pembroke College (ペンブルック・カレッジ)の Charles Free Andrews (チャールズ・フリー・アシドルーズ)を訪ねる。留守だったので、理髪店に行き、四時の tea time (お茶の時間)に再び訪ね、大学の様子を聞く。夜、 Charles Free Andrews 家に泊る。
十一月二日(金)、田島某(不詳)を訪ね、 Charles Free Andrews (チャールズ・フリー・アンドルーズ)の案内で Cambridge (ケンブリッジ)を見てまわる。午後四時、 Andrews の許で、茶に招かれる。その後、田島某に別れを告げる。(大学生の生活費は、一ゕ月四百ポンドから五百ポンドもかかると知り、ケンブリッジ大学に聴講する意志のないことを伝えたものらしい。 Oxford University (オックスフォード大学)も同じだろうと思い、断念する。 Edinburgh (エディンバラ)にしたいと思ったが、英語の方言を学んでも仕方ないので、結局、 London にする。)七時四十五分の汽車で London に帰る。」(荒正人、前掲書)
「偖(さて)是から留学地選定の件を方付ねはならぬ。「ケンブリツヂ」か「オクスフオード」か乃至「エデンバラ」か「ロンドン」かと色々思案をしたが、幸ひ或る西洋人の紹介を持つて居たから、一先(ひとまず)「ケンブリツヂ」に行って様子を見て来ようと思ふて出掛て見た。是が英国内の旅行の最初である。・・・・・夫から段々大学の様子を聴て見ると、先づ普通四百磅(ぽんど)乃至五百磅を費やす有様である。此位使はないと交際杯は出来ないそうだ。尤もやり方でもつと安くも出来るが、世間がそういう風だから衣服其他之に相応して高い。月謝も高い。留学生の費用では少々無理である。無理にやるとした処が交際もせず、書物も買へず、下宿にとぢ籠つて居るならば何も「ケンプリツヂ」に限つた事はない。少しでも楽な処に行くが善いと判断した。・・・・・」(明治34年2月9日付け狩野亨吉・大塚保治・菅虎雄・山川信次郎の4人宛ての手紙)
11月3日
~6日 漱石、ロンドン見物、下宿探し、ロンドン大学ケア教授に面会申込み
「十一月三日(土)、 British Museum (大英博物館)、 Westminster Abbey (ウェストミンスター寺院)を見る。
十一月四日(日)、下宿を探したけれども適当なもの見当らない。
十一月五日(月)、 London University (ロンドン大学)の University Colledge (ユニヴァシティ・カレッジ)に行く。 William Paton Ker (ケア教授)に手紙で面会を求める。
十一月六日(火)、ケア教授から返事あり、明日正午に来るように伝えてくる。(これは、昼食を共にするものと推定される) Hyde Park (ハイド・パーク)を見る。」(荒正人、前掲書)
11月3日
鉄幹(27)、瀧野の実家を訪ねた帰途、大阪箕面で関西青年文学界秋季大会に出席。
5日、鉄幹・晶子(22)・登美子(21)の3人、京都永観堂の紅葉を鑑賞、南禅寺から粟田口へ歩き、瀧野(22)の冷たさを2人に仄めかす。3人で栗田山辻野旅館に1泊。晶子・登美子は姉妹の約束をし、共通する憧れ人への思いを複雑に語り合う(登美子は親の決めた結婚のため身を引く決心)。
6日、3人は各々の道を辿る。
11月3日
パリ万博閉会。川上一座、123日間フラー劇場公演
11月5日
スペイン、政府離反の動きが広まる。カルロス派(武力反乱主張の極右主義者)系の全新聞、弾圧。同派倶楽部閉鎖。国中で法治体制が一時凍結。司祭・司教など多数逮捕。
11月5日
米軍政下でキューバの憲法制定会議開催(ハバナ)。
11月6日
共和党のウィリアム・マッキンレー米大統領、再選(~1901)。
11月7日
漱石、ロンドン大学のウイリアム・P・ケア教授と会い、その講義を聴くことにする(12月末頃まで)
「十一月七日(水)、正午、ケア教授に会い(推定)、午後、ケア教授の講義を聴く。十二月末まで傍聴生(聴講生)として通学する。 Sir Thomas Gregory Foster (フォスター博士、1866-1931 生理学著、ケンブリッジ大学教授)の講義も聴く。」(荒正人、前掲書)
「余は先づ走つて大学に赴き、現代文学史の講義を聞きたり。又個人として、私に教師を探り得て随意に不審を質すの便を開けり。」
「大学の聴講は三四ケ月にして已めたり。予期の興味も智識をも得る能はざりしが為めなり。私宅教師の方へは約一年間通ひたりと記憶す。」(『文学論』序)
11月8日
(旧暦9月17日) 子規の誕生日。碧梧桐、四方太、虚子、鼠骨の4人を招く。
11月8日
~11日 漱石、ロンドン見物、下宿探し
「十一月八日(木)、日本公使館(14 Grosvenor Garden, S.W.)で、一等書記官松井慶四郎に面会し、学資金を受け取る。名簿で、日本人留学生の下宿先を調べる。下宿を探し続ける。帰宅し、 Mrs. Nott (ノット夫人)の手紙と電報を受け取り、直ちに Sydenham (シドナム)に赴く。
十一月九日(金)、 Lord Mayor's Show (ロンドン市長就任行事)を見る。正金銀行で送金を受け取り、文部省会計課と中央金庫に領収書を送る。
十一月十日(土)、下宿を探し廻り、ほぼ決定する。新聞広告も見る。二日分見るのに、三時間もかかる。これで探し当てたものかと想像される。
十一月十一日(日)、 Kensington Museum (ケンジントン博物館)と Victoria and Albert Museum (ヴィクトリア・アルバート博物館)に行く。」(荒正人、前掲書)
11月8日
戦艦「三笠」、英ヴィッカース社のドック(イングランド北西部,カンブリア県南西部の都市バロー・イン・ファーネス)で進水式。「三笠」は、英国ヴィッカース造船所に発注した6隻目の戦艦。1902年3月に竣工、直ちに横須賀に回航され、日露関係が悪化し戦時体制に移行した1903年12月、連合艦隊に編入され旗艦となった。進水式について、週刊誌『イラストレイティッド・ロンドン・ニュース』(1900年11月17日号)は、「三笠」が最新の技術で建造された世界最強の軍艦であることを報じ、それに続けてこう記していた。
「この驚異的な軍艦の戦力が、これを建造した国に対して向けられることのないように、切望したいのであるが、この軍艦は先週バロー港のヴィッカース会社の造船所で、成功裡に進水した。」
11月8日
マーガレット・ミッチェル、誕生。ジョージア州アトランタ市ケイン・ストリート296番地の母方の祖母の家で生まれる。
11月9日
ロシア極東総督アレキセーエフ中将、旅順口に盛京(奉天)将軍増祺を招き、鉄道保護・治安名目でロシア軍の奉天省内駐屯を認めさせる。
11日、満州独占に関する「露清旅順協定」締結。以後、露の首都で交渉継続。
11月10日
東大運動会でヤード制を改めてメートル制を採用。
つづく
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