漱石のロンドンでの最初の下宿:ガワー街(76 Gower St.)
大杉栄とその時代年表(304) 1900(明治33)年10月22日~24日 孫文・鄭士良らの恵州蜂起失敗 日本人の支援者山田良政戦死 パリの漱石「巴里ノ繁華卜堕落ハ驚クベキモノナリ」 「男女共色白ク、服装モ立派ニテ、(略) 女抔ハクダラヌ下女ノ如キ者デモ、中々別嬪有之候」 より続く
1900(明治33)年
10月25日
与謝野鉄幹、西下。
27日、神戸に赴く。
28日、鉄幹と中山梟庵は岡山へ行き、後楽園を訪れる。
10月26日
西太后と光緒帝ら、西安着。
10月26日
ベルギー、老齢年金を制度化。社会主義者には不評。
10月27日
正田貞一郎、館林製粉(株)創立。群馬県が米から製粉機を輸入し、翌年11月操業開始。日清製粉(株)の前身。
10月28日
漱石、ロンドン着、最初の下宿に入る。
「十月二十八日(日)、午前八時頃、パリを出発する。十一時頃、 Dieppe (ディエップ)港を出航し、午後六時頃(推定)、 Newheaven (ニューヘヴン)港に着く。「船中風多シテ苫シ」(「日記」)汽車で London (ロンドン)に向う。午後七時頃、 Victoria (ヴィクトリア)駅に到着する。(藤代禎輔たちは、午前九時に集合、十時に馬車二台で Gare du Nord (北駅)に向う。午後一時五十分の汽車で Berkin (ベルリン)に出発する。)
76 Gower Street, London, N.W.1 (ロンドンで第一回めの下宿)に行く。(一日、食事付約六円。大塚保治に教えられたもの。このあたりは、 Bloomsbury (ブルームスペリー) と呼ばれ、 University College (ユニヴアーシティ・カレッジ)相手の下宿や民宿など多い。十八、九世紀に街路や広場が発達した地域で、西南隅には、 British Museum (大英博物館)がある。この下宿は、現在ではフラットになっている。)」(荒正人、前掲書)
「漱石は・・・・・、二十八日朝に、一人ロンドンに向かった。他の四人はいずれもドイツ留学組である。ロンドンに着いたのは午後七時すぎ、とりあえず大塚保治が紹介してくれたガワー・ストリート七十六番地の宿に宿泊した。大塚はドイツ中心に長くヨーロッパに滞在し、漱石が出国前に帰国していたのである。英会話は堪能でも、ロンドン訛りの英語は聞きとりにくい。初めての都会で目的地に行くのは緊張を強いられる時間だっただろ。
現在とは交通機関も交通事情も違うので、漱石がパリを出発した駅もロンドンの到着駅もよくわからない。出口保夫『ロンドンの夏目漱石』(河出書房新社)によると、パリのサンラザール駅を出て、ディエップ(*英仏海峡の港)着、連絡船で風雨の中ドーヴァー海峡を渡り、三時間強かけてイギリス領ニュー・ヘイヴン着。そこから汽車でロンドン(*ビクトリア駅)着、馬車で下宿へとなるらしい。」(十川信介『夏目漱石』(岩波新書))
「ロンドンの第一印象はどこにも記されていないが、おそらく金之助は二階建ての乗合馬車を見、おなじく二階建ての蒸気機関をつけたバスが街を行くのを見たものと思われる。一九〇〇年秋のロンドンは、世紀末のパリとはかなり異質な都会であった。つまりそれは、当時世界でもっとも発達した近代産業都市 - トレヴェリアンの言葉を借りれば、「生活の眼に見える部分に関するかきり、美やよろこびを求めても無駄」だというような、煙と煤におおわれた巨大な都市にほかならなかった。」(江藤淳『漱石とその時代2』)
「一九〇〇年(明治三十三)十月二十八日夜、ロンドンに到着した漱石は、その足でガワー街の下宿屋へ行った。ロンドン大学と大英博物館に近い文教地区ブルームズベリーにある、その大塚保治に教えられた下宿は、高級下宿であった。というより居住用ホテルで、一日二食つきで一日十二シリングもした。一週なら七十二シリング、すなわち三ポンド十二シリングで、それは邦貨にして三十六円、現在の価値に直して約四十万円余であった。
漱石の留学費用は月百五十円だから十五ポンドである。それで下宿代のほかに学費、書籍購入費、日常雑費、すべてをまかなわなければならない。東京なら、一家が十二分の余裕を持って暮らせる額なのに、ロンドンではお話にならない。ひと月分の下宿料に足りない。そのうえ、ちょっと外出すると、たちまち二円三円の金が消える。漱石はロンドンの物価高におびえ、急いで安い下宿を探した。」(関川夏央、前掲書)
漱石は到着早々からロンドンの街並みに「いづらい感じ」を抱いていた。下宿が見つかるまで滞在したスタンリー・ホテルがあったガウアー・ストリートが次のように描かれている。
「自分はのそのそ歩きながら、何となくこの都にいづらい感じがした。上を見ると、大きな空は、いつの世からか、仕切られて、切岸のごとく聳える左右の棟に余された細い帯だけが東から西へかけて長く渡っている。その帯の色は朝から鼠色であるが、しだいしだいに鳶色に変じて来た。建物は固より灰色である。それが暖かい日の光に倦み果てたように、遠慮なく両側を塞いでいる。広い土地を狭苦しい谷底の日影にして、高い太陽が届く事のできないように、二階の上に三階を重ねて、三階の上に四階を積んでしまった。小さい人はその底の一部分を、黒くなって、寒そうに往来する。自分はその黒く動くもののうちで、もっとも緩漫なる一分子である。」(「暖かい夢」『永日小品』)
ロンドン大学に近いガウアー・ストリートは、学者、医者、弁護士などが多く住むテラス・ハウスが立ち並ぶ住宅街で、スタンリー・ホテルはそうした住宅をホテルに転用したものだった。漱石には、自分が生活する「家」として煉瓦造りの四階建て自体に違和感があったが、ガウアー・ストリートでは、それが通りの両側に延々と続いている。その間に立って空を見上げた漱石は、こうした街づくりに対して人間の尊厳を傷つける不自然さを感じ取っていた
漱石、ロンドン大学で講義を聴講、また、シェイクスピア学者クレイグ先生の個人授業を受ける。大学の聴講は数ヶ月で止める。
「余はこゝに於て根本的に文学とは如何なるものぞと云へる問題を解釈せんと決心したり。…留学中に余が蒐めたるノートは蠅頭の細字にて五六寸の高さに達したり。余は此のノートを唯一の財産として帰朝したり。…倫敦に住み暮らしたる二年は尤も不愉快の二年なり。余は英国紳士の間にあつて狼群に伍する一匹のむく犬の如く、あはれなる生活を営みたり。」(「文学論」)。
つづく
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