2024年11月2日土曜日

大杉栄とその時代年表(302) 1900(明治33)年10月11日~16日 チャーチル下院議員 漱石、スエズ着 清・連合国、正式講和交渉入り 南方熊楠、帰国(神戸港着) 子規「明治三十三年十月十五日記事」 トロツキー(21)、流刑地到着、「東方評論」時評掲載    

 

シベリア流刑中のトロツキー(1900年)

大杉栄とその時代年表(301) 1900(明治33)年10月1日~10日 与謝野晶子「やわ肌の あつき血しほにふれも見で さびしからずや 道を説く君」 漱石、コロンボ~アデン~紅海に入る 娼妓取締規則(娼妓の自由廃業を認める)公布 渡辺国武「心機一転」事件 より続く

1900(明治33)年

10月11日

李鴻章、北京に到着。

10月11日

英、ウィンストン・チャーチル、下院議員当選。保守党。

10月13日

大阪土佐堀青年会館、キリスト教青年会主宰、松田順平、木下尚江らによる大規模な廃娼演説会開催。松島遊郭の楼主らの妨害で中止。

10月13日

漱石、スエズ着。同日、出発。


「十月十三日(土)、朝食後、九時頃 Suez (スエズ)(As・Suways, アス・スエース)で停泊、 Suez Canal (スエズ運河、百五十キロ)に入る。 ""The Times""(『タイムズ』)その他二、三種の雑誌を買う。山県有朋総理大臣の辞職(九月二十六日(水))を知る。(伊藤博文の写真が掲載されているものもあったという。伊藤博文を総理大臣として、新内閣の成立は、十月十九日(金)である。その予想が行われていたものか。九月十五日(土)伊藤博文は、立憲政友会を組織し、その総裁になっていた。)「検疫醫来りて一同を検査し去る 土人来りて種々の物を賣ること例の如し紙巻煙草、腕飾、写真等なり ジエルサレムの草花を以て押繪を製したるもあり 寫眞及郵便はがき數葉を購ふ午後二時出發す」。(芳賀矢一「留學日誌」)薄暮、Bitter (ビター)湖を通る。夜十時頃、月出る。」(荒正人、前掲書)

10月14日

下田歌子(46)、横浜会館での婦人教育講演会で「日本女子将来の覚悟」を講演。島田三郎は「婦人の天職」を講演。

10月14日

~15日 船上の漱石


「十月十四日(日)、 Suez Canal (スエズ運河)を通って、北端の Port Said (ポート・サイド、Bur Sa'id ブール・サイド)に着き、午後八時出航、地中海に入り、西北に進む。気温急に下る。日本と同じ気候である。

十月十五日(月)、地中海を西北に進む。北風寒い。『聖書』講義聞く。 Doctor Wilson  (ウィルソン博士、不詳)と話す。」(荒正人、前掲書)

10月14日

フロイト、「夢判断」出版。

10月15日

清・連合国、正式講和交渉入り。各国の調整に長時間を要し、講和成立は明治34年(1901)9月7日。

10月15日

南方熊楠、帰国、神戸港に着。翌々日、和歌山に帰り弟常楠の家に寄宿。隠花植物採集などの研究再開。

10月15日

三井呉服店、新築開店。座売りをやめ、店内を新柄陳列場とする。

10月15日

立憲政友会、「政友」創刊。

10月15日

子規「明治三十三年十月十五日記事」(『ホトトギス』第4巻第2号 明治33年11月20日〕)に描写された日

「写実的の小品文」の一つの実践形態としての「日記」を募集し、投稿日記への手入れを行っているある一日の病床生活を、子規自身の「日記」として発表したもの。


正岡子規『明治三十三年十月十五日記事』(青空文庫)


〈参考記事〉

正岡子規『明治卅三年十月十五日記事』〔『ホトトギス』第四巻第二号 明治33年11月20日〕を読む(1) 「御馳走(ごちそう)は、あたたかきやはらかき飯、堅魚(かつお)の刺肉(さしみ)、薩摩芋の味噌汁の三種なり。皆好物なるが上に配合殊(こと)に善ければうまき事おびただし。飯二碗半、汁二椀、刺肉喰ひ尽す。」

正岡子規『明治卅三年十月十五日記事』〔『ホトトギス』第四巻第二号 明治33年11月20日〕を読む(2) 「...発泡の跡、膿口など白く赤くして、すさまじさいはんやうもなく、二目とは見られぬ様に、顔色をかへて驚きしかば、妹は傍より、「かさね」のやうだ、とひやかし、...」

正岡子規『明治卅三年十月十五日記事』〔『ホトトギス』第四巻第二号 明治33年11月20日〕を読む(3) 「ふと今日は十月十五日にして『ホトトギス』募集の一日記事を書くべき日なる事を思ひ出づ。.....余も何か書かんと思ひ居し故今日は何事かありしと考ふるに何も書くべき事なし。実に平凡極る日なり。」

正岡子規『明治卅三年十月十五日記事』〔『ホトトギス』第四巻第二号 明治33年11月20日〕を読む(4終) 「「溲瓶を呼ぶ」という五文字には、そうした女性たちに介護されている男性としての子規の、恥ずかしさと申し訳なさをはじめとする様々な複合した感情の寄り集まりのうえに、二人の女性介護者への気遣いもあらわれている。」(小森陽一『子規と漱石』)


10月15日

露、トロツキー(21)、流刑地ウスチ・クート到着後まもなく、イルクーツクの新聞「東方評論」に時評掲載。~'02/夏迄、31回。「超人の哲学」「ジューコフスキー」「イプセン論」「グレープ・ウスペンスキー論」「ゴーゴリ」「レオニード・アンドレーエフ論」など。

「2年目の終わり」(多分、この年春)、オデッサで判決。主犯4名は東シベリア4年間流刑となる。まず、半年間、モスクワの中継監獄で過ごす。ここでレーニン「ロシアにおける資本主義の発展」を読む。また、小冊子「オデッサとニコラーエフの労働運動」を執筆し獄外に流す(1900年ジュネーブで出版)。ここで、「同盟」同志アレクサンドラ・リヴォーヴナと結婚(流刑地が別々にならないため)。後、いくつかの監獄で足止め。1900年秋流刑地(レナ河を北に下るウスチ・クートの村)につく

レナ河は流刑囚の大水路。流刑囚は互いに連絡しあい、イルクーツク知事の許可により流刑地間を移動。トロツキー夫妻はウスチ・クートから東のイリム河畔に居を移す。ここで1ヶ月半、商人の事務員として働き、再び、10ヶ月の娘を連れてウスチ・クートに戻る。数ヶ月後、南のヴェルホレンスクに移る。この頃、ジェルジンスキー、ウリツキーと知合う。流刑地では、古参ナロードニキは流刑囚集団の貴族階層を形成、若いマルクス主義者は独自の階層を形成。

10月15日

独、ホーエンローエ公、宰相(1894~)辞任。

10月16日

イギリス・ドイツ間、清の門戸開放・領土保全を目的として揚子江協定が成立。在華権益の保護、経済活動の自由と機会均等など、清国との講和会議に臨んでの方針合意。揚子江を英の勢力範囲と確認。列強の領土拡張の野心を抑制する方向を示す。

10月16日

漱石、スエズ運河通過して2日目。


「十月十六日(火)、地中海を西北に進む。「海荒レテ気色悪シ」(「日記」)一行、食卓給仕二十五マルク、船室給仕二十マルク、湯番十五マルクの手当を与える。一同、十時頃就寝する。」(荒正人、前掲書)


「この十月十六日、漱石はスエズ運河を通過して二日目、地中海にあった。上陸に備えて同行五人でウェイターやボーイにやるチップの相談をした。ウェイターには二十五マルク、ボーイに二十マルク、湯の番をする係の者に十五マルクと決めた。日本円に直せば総額で六十円、子規の月給二カ月分に近い額だが、ひとりあたりの負担としては十二円であった。」(関川夏央、前掲書)

10月16日

子規、8月以来の懸案であった興津への転地を断念する。


つづく

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